日野富子(読み)ひのとみこ

精選版 日本国語大辞典 「日野富子」の意味・読み・例文・類語

ひの‐とみこ【日野富子】

室町幕府八代将軍足利義政夫人。実子義尚の将軍継承を図って山名宗全を後見者とし、応仁の乱の原因をつくった。また、幕府の政治に専横をきわめ、京都七口に関所をつくり関税をとったり、高利貸・米相場にも手を出したりするなどして富を築き、経済を混乱させた。永享一二~明応五年(一四四〇‐九六

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デジタル大辞泉 「日野富子」の意味・読み・例文・類語

ひの‐とみこ【日野富子】

[1440~1496]室町幕府8代将軍足利義政の妻。実子義尚よしひさの将軍就任を企て義政の弟義視よしみと対立し、応仁の乱の端緒をつくった。京都諸口の関所の設置、そのほか幕政に深く関与した。

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朝日日本歴史人物事典 「日野富子」の解説

日野富子

没年:明応5.5.20(1496.6.30)
生年:永享12(1440)
室町幕府将軍足利義政の妻。義尚の母。公家日野政光の娘。16歳のとき義政に嫁し,4年後に最初の子を生んだが,その子はすぐに死亡している。義政とはそろって糺河原の勧進猿楽を見物するなど仲睦まじかったが,義尚を生んだことで,すでに義政の養子として元服も終えていた義政の弟義視との間は微妙なものとなり,やがて反目対立を生じる。これは応仁の乱の一因ともなった。富子が義尚の後ろ盾として政治への介入を強めるのは兄日野勝光死後のことである。将軍義政は当時政道に倦み,応仁の乱後「公武」は疲弊,退廃していた。義尚への富子の補佐は義政の承認するところでもあった。 文明12(1480)年,幕府は京の七口に関を設置し,内裏修理のため関銭を徴収しようとして土民と対立するが,『大乗院寺社雑事記』の記すところによれば,この七口の関は修理とは名ばかりで御台富子の私物に供するためであったという。この時期,政道の中心にあった富子に富が集中するのは自然の成り行きであった。しかし富子の非凡なところは,その富を集積するだけでなくこれを貸し付け,またこの富をもって米商売をしようとしていたといわれるように,持てる富をさらに活用しようとした点である。このような経済感覚の鋭さはひとり富子のみならず,日野家の勝光や永俊,永繕首座,それに同家家司たちにも共通してみられるものであった。日野家自体が,室町期の経済発展に対応した家風を形成していたと考えられる。義尚が成人に達し,義政も再び執政をはじめると,富子は経済活動に重点を移していく。また天皇家や公家,寺社の窮乏を自らの財で支え,特に天皇家に対しては財政的援助を惜しまなかった。つまり,将軍家の中にあって天皇家(朝廷)との外交的役割を果たしていたといえる。 義尚,義政の死後,剃髪して尼となった。義尚に代わって入京した足利義視・義材父子との間は険悪であり,義材と対立していた管領細川政元と計って,堀越公方足利政知の子義遐(義澄)を猶子とし将軍位に立てた。このように将軍の決定に富子が関与したのは,将軍家の後家尼として当然のことであったと思われる。明応5(1496)年に57歳で没したあとには,「七珍万宝」といわれる多くの遺産が残されたという。その晩年は必ずしも幸福であったとはいえず,ときの将軍足利義高は葬礼にも臨まなかった。しかし,将軍家の正妻として義政にも承認された状態で政治を握り,経済活動をなし,外交的役割を果たした才覚および積極性は評価されてよい。<参考文献>『蜷川親元日記』,吉村貞司『日野富子』,田端泰子『日本中世の女性

(田端泰子)

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改訂新版 世界大百科事典 「日野富子」の意味・わかりやすい解説

日野富子 (ひのとみこ)
生没年:1440-96(永享12-明応5)

室町中期の女性。8代将軍足利義政の室。政光(重政)の娘。1455年(康正1)義政に嫁ぎ,59年男子を得るが死産であった。ところが,義政の愛妾とも乳母ともいわれる今参局(いままいりのつぼね)が富子を呪詛したことが露顕したため,富子は義政を動かしてこれを殺害した。その後も男子なく,64年(寛正5)義政は弟浄土寺門主義尋(義視)を養子にしたが,翌年富子は懐妊,男子を出産した。これが義尚である。《応仁記》は富子が義尚の後見を山名持豊に依頼し,一方,細川勝元が義視の後見であったため両者の対立が激化したと説くが確証はない。ただ富子が義尚の将軍就任を望んだことは確実である。応仁・文明の乱では義政・義尚とともに東軍陣営にあり室町第に居住,76年(文明8)同第焼失後は小河常御所に移住する。乱の終結に尽力し西軍足利義視や大内政弘から多額の礼金を受け取る。兄勝光の死後,積極的に幕政に関与し特別重大な問題を除いて富子が裁断し,御内書も発した。78年幕府は内裏修理のため京都七口に関所を設けたが,修理は名目にすぎず富子の収入となったため80年土一揆が蜂起した。幕府は徳政禁制を発し一揆を鎮めたが,この発令者を富子と考える説もある。実際に富子の所領に近江国船木関があり,毎月60貫文の収入があった。また高利貸を営み収入は計り知れず,西軍畠山義就に1000貫文の軍用金を貸与した。82年義政が長谷御所に隠居したため幕府沙汰始を執行したが,まもなく義尚が幕政を担当し始め富子は政治から離れる。気性が激しく義政・義尚とたびたび不仲になった。89年(延徳1)義尚が近江出陣中に没し,翌年義政も死去すると,次期将軍の候補者に足利義視の子義材(義稙)と堀越公方足利政知の子清晃(義澄)があがったが,富子の推挙により前者が10代将軍となり義視が後見した。富子は小河御所を清晃に与えたが義視に破却され,富子の料所も差し押さえられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日野富子」の意味・わかりやすい解説

日野富子
ひのとみこ
(1440―1496)

室町幕府8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の室。日野重政(しげまさ)(政光(まさみつ)改め)の女(むすめ)。9代将軍義尚(よしひさ)の母。1455年(康正1)16歳で義政に嫁し2女を生んだが、男子を得られなかったので、義政は64年(寛正5)弟の浄土寺義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ義視(よしみ)と名のらせ後嗣(こうし)と決めた。ところが翌65年に富子は義尚を生み、彼を将軍継嗣にたてようとして兄の勝光(かつみつ)や伊勢貞親(いせさだちか)と結んで義視排斥を画策し、義視を支持する細川勝元(かつもと)と鋭く対立した。66年(文正1)伊勢貞親が義視排斥に失敗し近江(おうみ)(滋賀県)に去ったため、有力な支持者を失った日野兄妹は山名宗全(やまなそうぜん)に義尚の後見を頼むに至り、細川勝元と山名宗全の勢力争いに拍車をかけ、応仁(おうにん)の乱(1467~77)を引き起こす引き金となった。うち続く戦乱のなかで家督相続者となった義尚が73年(文明5)9歳で元服し将軍になると、富子は幕政に深く介入するようになり、ことに兄勝光の死後は権勢を一手に握り、彼女のもとに祝い物を届ける人々の列が1~2町にも及んだという。夫義政が現実政治から逃避し東山(ひがしやま)山荘で隠遁(いんとん)生活を送ったのとは対照的に、関所設置による課税や米の投機的売買、高利貸活動などによって利殖に努め、その富を背景に専横を極め、天下の料足(りょうそく)(貨幣)はみな富子のもとに集まるとさえいわれるほどであった。1478年に幕府は内裏(だいり)修理料の名目で京都七口(ななくち)関を置き関銭を徴収した。これはすべて富子の着服するところであったが、これらの関は80年の土一揆(つちいっき)によりことごとく破られる。義政との疎遠に加え83年には子義尚とも不和になり、以後富子は急速に権勢を失う。89年(延徳1)義尚が近江の六角(ろっかく)討伐の陣中で病いに倒れ、25歳で世を去り、翌年には義政とも死に別れ、尼となった富子の晩年は室町幕府の衰退とともにあった。将軍には義視の子義材(よしき)(のち義稙(よしたね))が就いたが、実権は細川政元(まさもと)の掌握するところとなり、富子も政元の支持によって勢力を保っていたにすぎない。明応(めいおう)5年5月20日、57歳で没した。妙善院と号す。京都の宝鏡寺に富子の木像がある。

[酒井紀美]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日野富子」の意味・わかりやすい解説

日野富子
ひのとみこ

[生]永享12(1440).京都
[没]明応5(1496).5.20. 京都
室町幕府8代将軍足利義政の室。日野重政の娘。 16歳で義政に嫁し,初め男子がなかったため,義政の弟浄土寺義尋 (義視) を還俗させて後嗣とした。しかし寛正6 (1465) 年義尚が生れたので,義尚を将軍の後継者とするため山名宗全と結び,義視を推す執事細川勝元と争い,ついには応仁の乱を引起した。そのため幕府の実権は失われ,社会は混乱し,政治は腐敗の極にあったが,富子は兄の左大臣日野勝光と結んで賄賂をとり,内裏修理を口実に関を設けて関税を課し (→七口の関 ) ,高利貸をして私腹を肥やした。義尚を将軍にすることには成功したが,彼は延徳1 (89) 年近江で陣没し,さらに翌年義政も没したので,その権勢も衰え,義視の子の義稙が将軍となると所領は没収され失意のうちに没した。

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百科事典マイペディア 「日野富子」の意味・わかりやすい解説

日野富子【ひのとみこ】

室町幕府8代将軍足利義政夫人。幕政に関与し,また賄賂や米商売などによって莫大な富をもっていた。初め義政は弟義視(よしみ)を後継に定めたが,のち富子が産んだ義尚(よしひさ)を将軍にしようとしたことが応仁・文明の乱の原因となった。1473年義尚が将軍となり,実母富子は権勢を誇った。
→関連項目足利義稙足利義尚日野家

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日野富子」の解説

日野富子
ひのとみこ

1440~96.5.20

室町幕府の8代将軍足利義政の室。9代将軍義尚(よしひさ)の母。日野政光の女。1455年(康正元)義政の生母日野重子の意向で義政に嫁す。はじめ義政に男子がなく,64年(寛正5)弟義視(よしみ)を継嗣としたが,翌年富子が義尚をうみ,両者をめぐる対立が応仁・文明の乱の一因となった。乱中,義視が西軍に出奔したため73年(文明5)義尚が将軍となる。以後数年間,兄勝光と執政にあたり,89年(延徳元)義尚死後,妹の子義材(よしき)(義稙(よしたね))を継嗣に定めた。翌年義政の死後出家して妙善院慶山と称す。のち義材との関係は悪化,93年(明応2)細川政元の清晃(義澄)擁立を支持し,清晃を義政猶子(ゆうし)分として継嗣にたてた。富子の行使した将軍家重事の決定権は,御台あるいは後家の尼たる地位に由来し,中世の女性として例外的なものではない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日野富子」の解説

日野富子 ひの-とみこ

1440-1496 室町時代,足利義政の妻。
永享12年生まれ。日野政光(重政)の娘。日野勝光の妹。子の足利義尚(よしひさ)を将軍の跡継ぎにしようとして山名持豊(宗全)とむすび,義政の弟義視(よしみ)をおす細川勝元とあらそい,応仁の乱をひきおこす。義尚が9代将軍となると,幕政に関与。高利貸し,関所新設による関銭の徴収などで蓄財をはかった。明応5年5月20日死去。57歳。法号は妙善院。
【格言など】世を祈る心を神のうけぬともこの言の葉にさらにこそ知れ(「亜槐(あかい)集」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「日野富子」の解説

日野富子
ひのとみこ

1440〜96
室町幕府8代将軍足利義政の夫人
日野家に生まれ,16歳で義政に嫁し,2女を生んだ。初め男子なく,義政が弟義視 (よしみ) を後継者と決めた直後義尚 (よしひさ) を生み,実子義尚を将軍にするため,山名宗全を後援者として応仁の乱を引き起こした。また京都の周囲に新関を設け,米相場・賄賂・高利貸などを行って,義政をこえる勢力をもったといわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の日野富子の言及

【今参】より

…1451年(宝徳3)尾張国守護代を更迭せんとし,義政の生母裏松重子と対立する。59年義政夫人日野富子が男子を死産するが,今参の富子呪詛の事実が露顕,近江国沖ノ島配流の途中自殺した。【鳥居 和之】。…

【応仁・文明の乱】より

…将軍足利義政は,最初男子に恵まれなかったために,64年(寛正5)に弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ,義視と名のらせて正式に義政の後継者とした。ところが,その翌年に正妻日野富子との間に,男子の出生を見た。のちの義尚である。…

【京都七口関】より

…80年9月には七口の関所存置が誘因となって山城土一揆が再発,連日酒屋土倉を襲い,10月には実力で七口の関所を打ち破った。このときの関所設立目的は将軍足利義政夫人日野富子の収益のためであった(《大乗院寺社雑事記》)。その後81年,85年,1509年(永正6)と3回にわたって新関を設けるが,その廃止をめぐってしばしば血なまぐさい一揆が起こり,一時的には廃止に成功してもまもなく旧に戻るのが通例であった。…

【日野家】より

…藤原氏北家の流れ。右大臣内麻呂の息男真夏から出て,その孫家宗が山城国宇治郡日野の地に法界寺を創建し,家宗の5世の孫藤原資業(すけなり)が法界寺の薬師堂を建立し,それより日野氏を称した。公家としての家格は弁官を経て中・大納言に至る名家で,代々儒道および歌道をもって朝廷に仕えた。南北朝時代には俊光,資名,資朝が活躍し,室町時代には時光の女業子と孫女康子(北山院)が将軍足利義満の室となってから,9代義尚まで日野家の女が将軍の室となったために勢力を張り,時光の子資康および資康の子重光は従一位権大納言に進んだ。…

※「日野富子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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