映画美術(読み)えいがびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「映画美術」の意味・わかりやすい解説

映画美術 (えいがびじゅつ)

映画製作に関与する美術のすべて(セット,装飾のみならず小道具,衣装なども含む)に対する総称プロデューサーの視点に即して作品の規模や商品価値の決定にまで関与する場合と,監督の演出意図の実現を助けて独自の映画的空間を設計する場合という二つの映画美術の概念が存在する。《風と共に去りぬ》(1939)の画調の統一に貢献したW.C.メンジーズ前者にあたり,ハリウッドの〈プロデューサー・システム〉における美術監督の地位の重要さを認識させた。〈プロダクションデザイナー〉の呼称はメンジーズに始まる。これに対して,フランドル派の絵画をスクリーンに再現して,歴史映画におけるリアリズムの基礎を築いたとされる《女だけの都》(1935)のジャック・フェデル監督や,パリの下町の風景をそっくりオープンセットに再現して,〈巴里〉のイメージを決定的にした《巴里の屋根の下》(1930),《巴里祭》(1932)のルネ・クレール監督に協力して,複雑なカメラワークや微妙な照明を画面に生かしうる装置を設計したメールソンLazare Meerson(1900-38)は後者を代表し,美術監督の地位の向上に貢献した。メールソンの弟子のトローネルAlexandre Trauner(1906-93)の仕事は《天井桟敷の人々》(1944)を代表とするマルセル・カルネ=ジャック・プレベール作品に結実し,〈詩的レアリスム〉の名のもとにフランス映画の黄金時代を築くとともに,大戦後はハリウッドにも招かれ,ビリー・ワイルダー監督作品(《アパートの鍵貸します》(1960),パリの中央市場を再現した《あなただけ今晩は》(1963),等々)などを介して,アメリカ映画における美術監督の概念を変容せしめた。いずれにあっても映画美術を舞台装置やデザインなど,既存の演劇や美術に基礎をおく美学的価値観から解放し,フィルムの光学的特質を最大限に活用した点が特徴的である。その意味で,映画美術の真の確立はトーキー以後の1930年代に求められるべきであり,また,第2次世界大戦中にとくにイギリスを中心とするカラー映画テクニカラー)の発達が色彩による内容の心理的・劇的・性格的表現に新しい分野を開拓したことも注目される(ロンドン・フィルムを牙城(がじよう)にして〈美術監督art director〉と初めて名のったビンセント・コルダの《バグダッドの盗賊》(1940),《ジャングル・ブック》(1942),M.パウエル=E.プレスバーガー作品《黒水仙》(1947)におけるアルフレート・ユンゲの美術,等々)。

 一方,第1次大戦直後のヨーロッパにおける表現主義,シュルレアリスムなどの画家たちの映画美術への協力は,かならずしも映画的造形性を探究するものではなく,あくまでも過渡的なものとみなされるべきであろう。《カリガリ博士》(1920)におけるH.ワルムスとW.レーリッヒ,M.レルビエ監督《人でなしの女》(1923)におけるR.マレ・ステバンやF.レジェらの画家,建築家たちの仕事は映画的である以前に装飾的であり,それが真に映画的な効果をもつには,《人でなしの女》の美術に参加したもう1人の装置家であり,レルビエ監督の《生けるパスカル》(1925)の美術を担当し,美術監督の先駆者でもあり,〈プロダクション・デザイン〉の初期的実践者でもあるアルベルト・カバルカンティの才能を通過しなければならなかった。カバルカンティが,のちにイギリスでドキュメンタリー映画の製作者・監督となることが示しているように,映画美術は装飾ではなく,画面全体を決定する本質的な要素であり作品の質そのものに関するものであった。それゆえ,〈美術監督〉をもたずに撮影された初期のヌーベル・バーグの作品にも映画美術の概念は存在していたといえよう。またヒッチコックにとっての〈スクリーン・プロセス〉,初期のラングにとっての〈シュフタン・プロセス〉による合成画面,溝口健二やオフュルスにおける移動撮影,バークレーの俯瞰(ふかん)撮影と照明を駆使した幾何学模様の振付,日本の時代劇における殺陣師の役割なども映画美術の問題として考慮さるべきであろう。しかし,それを可能にする統一的視点はまだ提起されるに至っていない。また,ソウル・バスによるタイトル・デザイン,オート・クチュールの衣装デザイナーの協力などをどう位置づけるかもきわめて微妙であるが,映画美術の定義は現状では〈プロダクション・デザイナー〉,または〈美術監督〉としてクレジットされた者たちの仕事という範囲にとどまっている。日本映画においては〈美術監督〉という呼称すら定まっておらず,これまで〈美術監督〉の名で呼ばれたのは溝口健二監督《西鶴一代女》(1952)における水谷浩,同《雨月物語》(1953)における伊藤熹朔,大島渚監督《儀式》(1971),《戦場のメリークリスマス》(1983)における戸田重昌くらいである。さらに映画美術の具体的内容は時代や撮影システムによって著しく異なっており,現在でも《スター・ウォーズ》(1977)のプロダクション・デザイナーのノーマン・レイノルズと,《終電車》(1980)の美術監督コユト・ツベルコの仕事を同一の水準で論ずることは不可能である。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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