新撰 芸能人物事典 明治~平成 「月形 龍之介」の解説
月形 龍之介
ツキガタ リュウノスケ
- 職業
- 俳優
- 本名
- 門田 潔人(モンデン キヨト)
- 別名
- 前名=中村 東鬼蔵,門田 東鬼蔵
- 生年月日
- 明治35年 3月18日
- 出生地
- 宮城県 遠田郡小牛田村(美里町)
- 学歴
- 三田英語学校
- 経歴
- 4歳のとき、北海道岩見沢で芝居小屋を営む伯父の門田養吉の養子となる。岩見沢尋常高等小学校を1年で中退したのち、酒屋に奉公するが、やがて中学への進学を希望し、上京して荏原中学、三田英語学校に通った。大正8年東京電機に入社したのを経て、幡ヶ谷のタングステン工場に勤めたが、9年付き合っていた女性(のち結婚)と駆け落ちして京都に移り、俳優を志して牧野省三の養成所に入所。同年中村東鬼蔵を名乗り、尾上松之助主演「仙石権兵衛」の端役で銀幕デビュー。10年牧野の日活退社で養成所も解散すると、中村末之助の一座に加わり、地方巡業に従いながら技芸を磨いた。11年牧野教育映画製作所に入り、13年「栗飯の焚ける間」「雲母阪」「討たるる者」と立て続けに阪東妻三郎と共演して頭角を現す。この頃、芸名を門田東鬼蔵としたが、同年脚本家の寿々喜多呂九平の命名で月形竜之介に改名。同年沼田紅緑監督の「刃光」で初主演、「毒刃」「戦国時代」「影法師」「乱刀」などへの出演を経て、14年牧野が設立したマキノプロに移り、15年の行友李風原作「修羅八荒」のヒットで時代劇スターとしての地位を確立した。昭和2年牧野の娘・輝子との恋愛沙汰で一時マキノプロを追われるが、贔屓であった作家・直木三十五らのとりなしで間もなく同プロに復帰。3年ツキガタプロダクションを設立し、月形陽候に名を改めて時代劇映画を製作・出演した。4年同プロダクションを解散後は芸名を龍之介に戻し、松竹下加茂撮影所に入社。6年トーキー映画の時代の到来を見越して再び独立し、奈良県生駒に月形プロダクションを設立、「暁の市街戦」で全編PCLトーキーを導入するなど野心的な作品を発表したが、そのために多額の負債を背負い、間もなくプロダクションを解散。曽我廼家五九郎劇団や東活映画などを経て、8年日本の俳優で初めてフリーとなり、南光明らと日本フリーランサー協会を創立したが長続きしなかった。以後、新興キネマ、マキノトーキー、連合映画社、日活太秦撮影所などを転々とする。この間、千恵蔵プロに招かれて出演した8年の「堀田隼人」では千坂兵部を演じて堀田隼人を演じる片岡千恵蔵の向こうを張った。12年には志波西果監督による日本初のカラー時代劇「月形半平太」で主演。17年大映京都に入ってからは脇役としての活動が主となるが、全日本映画俳優協会関西支部長を務めるなど関西時代劇界で重きをなした。24年大映を退社して東横映画(東映)に移り、脇役として多くの映画に出る一方で後進の指導に当たる。28年日本芸術家信用組合の設立にともない、初代理事長に就任。29年からは〈水戸黄門漫遊記〉シリーズで主役の水戸黄門(徳川光圀)を好演し、今日の水戸黄門のイメージを定着させた。晩年は青年時代の落馬負傷や撮影中の骨折の後遺症で歩行すら困難になり、39年東映退社後はテレビなどの軽い仕事を主体とした。他の出演作に「斬人斬馬剣」「宮本武蔵」「国定忠治」「姿三四郎」「白い壁画」「ジャコ万と鉄」「人生劇場」など。テレビ映画「銭形平次・老岡っ引きの涙」が最後の出演作となった。
- 没年月日
- 昭和45年 8月30日 (1970年)
- 家族
- 長男=月形 哲之介(俳優)
- 伝記
- 月形龍之介マキノ出身のチャンバラスター―鳥人・高木新平 月形龍之介 阪東妻三郎 嵐寛寿郎 月形 哲之介 監修,円尾 敏郎,高橋 かおる,中田 雅喜 編伊吹 映堂 著(発行元 ワイズ出版ワイズ出版 ’00’97発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報