有家(読み)ありえ

日本歴史地名大系 「有家」の解説

有家
ありえ

中世、高来東たかくとう郷のうちにみえる郷村。戦国期には有馬氏の勢力下でキリスト教の影響の強い都市的様相をみせた。貞和元年(一三四五)一二月二七日の足利直義下文案(蜷川家文書)に「高来東有家有間両村」とみえ、両村の地頭兼預所職などが相伝知行として開田遠員に安堵されているが、これは遠員が証文を紛失したためで、武藤資経らにその実否を確かめたうえでなされている。南北朝期、島原半島に浸透していた征西将軍宮の勢力を討つため、九州探題の今川了俊は応安七年(一三七四)七月に自ら伊佐早いさはやに出陣、八月には「高来有家村」などを転戦し、その軍勢には肥前の深堀諸氏や福田氏・式見氏らが加わって(同年八月日「深堀時広軍忠状」深堀文書など)、その優勢な地域を拡大していった。

一五七六年(天正四年)フロイスが赴いたアリエは有馬ありまから一里離れた大きな集落で、そこに有馬殿は保養のために湯治場と庭園を設けていたという。また高来の最も主要で高貴な人々が住み、有馬晴信の母の兄弟のジョアン(安富左兵衛)という家老も居を構え、その妻もまたキリシタンで、ゼロニマと名乗っていた(「一五八二年日本年報」イエズス会日本年報、フロイス「日本史」)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「有家」の意味・わかりやすい解説

有家
ありえ

長崎県南東部、南高来(みなみたかき)郡にあった旧町名(有家町(ちょう))。現在は南島原市(みなみしまばらし)の中東部を占める。旧有家町は1927年(昭和2)町制施行。1956年(昭和31)堂崎(どうざき)村と合併。2006年(平成18)西有家南有馬(みなみありま)、北有馬口之津(くちのつ)、加津佐(かづさ)、深江(ふかえ)、布津(ふつ)の7町と合併、市制施行して南島原市となった。旧町域は雲仙岳(うんぜんだけ)の南東麓(ろく)に位置し、国道251号が通じる。雲仙岳から島原湾に向かって広がる俵石(たわらいし)扇状地のスロープ地帯では、葉タバコと果樹(ミカン、ナシ、ブドウ)の栽培が盛んで、有家川下流の沖積地では米作のほかに、ビニルハウスによる促成キュウリの特産があり、おもに長崎、佐世保(させぼ)市に出荷される。俵石扇状地の扇頂部には俵石展望台があり、島原湾、熊本、阿蘇(あそ)山を望みうる。展望台近くには鮎帰ノ滝(あゆがえりのたき)がある。中須川(なかすかわ)地区にはキリシタン墓碑が多く(23基)、前田の屋敷とよばれる所にセミナリオと教会跡の標識がある。島原・天草一揆(いっき)では、有馬(ありま)とともに一揆に参加した農民がもっとも多かった地である。

[石井泰義]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「有家」の意味・わかりやすい解説

有家
ありえ

長崎県南東部,南島原市東部の旧町域。島原半島の南部,雲仙岳の南東麓にある。 1927年町制施行。 1956年堂崎村と合体。 2006年加津佐町,口之津町,南有馬町,北有馬町,西有家町,布津町,深江町と合体して南島原市となった。慶長年間 (1596~1615) にキリシタンの布教地となったところで,キリシタンの墓碑を中心とした史跡公園,セミナリオ跡などがある。主産業は農業で,葉タバコ,ミカン,野菜の栽培が行なわれ,そうめんを特産する。一部は雲仙天草国立公園に属する。

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改訂新版 世界大百科事典 「有家」の意味・わかりやすい解説

有家 (ありえ)

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