有田八郎(読み)ありたはちろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「有田八郎」の意味・わかりやすい解説

有田八郎
ありたはちろう
(1884―1965)

外務官僚、政治家。新潟県佐渡生まれ。早稲田(わせだ)中学、旧制第一高等学校を経て、1909年(明治42)東京帝国大学法科を卒業、外務省に入る。中国の奉天(ほうてん)(現瀋陽(しんよう))、ハワイのホノルルなど在勤後、天津(てんしん)総領事。1927年(昭和2)田中義一兼任外相のもとでアジア局長となり、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)派にかわる省内アジア派の中核とみなされる。1931年満州事変勃発(ぼっぱつ)に際しては、オーストリア公使として国際調停に尽力。広田弘毅(ひろたこうき)、第一次近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)、米内光政(よないみつまさ)各内閣の外相を務め、日独防共協定(1936)に賛成しつつも米英対象の軍事同盟化に反対するなど、米英との協調による大陸進出を図った。敗戦後、公職追放。解除後1953年(昭和28)衆議院議員に当選し、社会党入党。1955年、1959年の東京都知事選に革新統一候補として出馬落選。昭和40年3月4日死去。1961年三島由紀夫の小説『宴(うたげ)のあと』をプライバシー侵害と訴えた事件は有名。

[小田部雄次]

『山本悌二郎著『有田八郎の生涯──信念に生きた人』(1988・考古堂書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「有田八郎」の意味・わかりやすい解説

有田八郎 (ありたはちろう)
生没年:1884-1965(明治17-昭和40)

昭和期の外交官,政治家。佐渡に生まれ,東京大学卒業後,1909年外務省に入る。アジア局長,オーストリア公使,ベルギー大使などをへて,36年に広田弘毅内閣の外相に就任し,日独防共協定を締結した。38年10月,宇垣外相の後任として第1次近衛文麿内閣に入り,平沼騏一郎内閣にも留任した。この間日独防共協定の強化に一貫して反対したが,40年1月に成立した米内光政内閣の外相時代には〈東亜新秩序〉の建設を推進した。英米との協調外交理念としていた幣原外交に対抗し,協調を不可欠としながらも東アジアにおける現状打破の必要を唱え,当時の外務省主流派の中心人物であった。回想録として,《人の目の塵を見る》(1948),《馬鹿八と人はいう》(1959)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「有田八郎」の意味・わかりやすい解説

有田八郎
ありたはちろう

[生]1884.9.21. 新潟
[没]1965.3.4. 東京
外交官,政治家。東京帝国大学を卒業後,外務省に入り,アジア局長,オーストリア公使,外務次官などを歴任。 1936年広田弘毅内閣の外相となり,以後第1次近衛文麿内閣,平沼騏一郎内閣,米内光政内閣の外相を次々につとめ,外交界の長老として活躍した。第2次世界大戦後,無所属で新潟1区から代議士に当選した。その後,55年東京都知事選挙の革新統一候補に推され,立候補し落選,政界から退いた。この間,料亭般若苑の女将畔上輝井と結ばれ別れたが,これをモデルにした三島由紀夫の小説『宴のあと』がプライバシー侵害にあたるとして損害賠償請求の訴えを起した話は有名 (→宴のあと事件 ) 。著書に『馬鹿八と人はいう-一外交官の回想』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「有田八郎」の解説

有田八郎 ありた-はちろう

1884-1965 明治-昭和時代の外交官,政治家。
明治17年9月21日生まれ。山本悌二郎の弟。明治42年外務省にはいり,ベルギー・中国大使などをつとめる。昭和11年広田内閣の外相となり,日独防共協定を締結した。のち第1次近衛・平沼・米内(よない)各内閣の外相。28年衆議院議員。三島由紀夫の小説「宴(うたげ)のあと」に対し,わが国最初のプライバシー侵害訴訟をおこした。昭和40年3月4日死去。80歳。新潟県出身。東京帝大卒。旧姓は山本。
【格言など】いたずらに必勝不滅の信念を高唱する者は皇国を滅亡に導くもの,仰ぎ願わくは戦争の帰趨(きすう)を大観せられ,一断もって皇国の危急を救わせたまわんことを(終戦直前の上奏文)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「有田八郎」の解説

有田八郎
ありたはちろう

1884.9.21~1965.3.4

大正・昭和期の外交官。新潟県出身。東大卒。1909年(明治42)外務省入省。27年(昭和2)田中義一内閣の亜細亜局長,32年から外務次官,36年広田内閣の外相に就任。以後,第1次近衛・平沼・米内(よない)の3内閣で外相。日独防共協定を締結したが,三国同盟化には反対。日中戦争解決に努力するが,九カ国条約の修正もいとわない姿勢に,アメリカなどの警戒をまねいた。

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