朝倉教景(読み)あさくらのりかげ

精選版 日本国語大辞典 「朝倉教景」の意味・読み・例文・類語

あさくら‐のりかげ【朝倉教景】

戦国時代武将。入道号宗滴。文亀三年(一五〇三越前一向一揆をしりぞけ、弘治元年(一五五五加賀一揆勢力と戦うが病を得て帰国後没した。文明六~弘治元年(一四七四‐一五五五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝倉教景」の意味・わかりやすい解説

朝倉教景
あさくらのりかげ
(1477―1555)

越前の戦国大名朝倉氏一族。初代孝景(たかかげ)の八男。入道名宗滴(そうてき)。1503年(文亀3)に叛乱を企てた一族の景豊(かげとよ)に替わって敦賀(つるが)郡司となり、以後も子孫がこの職を継いだ。敦賀(つるが)郡司として郡内を支配するとともに、代々の朝倉氏の軍事指導者として加賀の一向一揆などと戦った。彼が語ったことをまとめた『朝倉宗滴話記』によれば、18歳から79歳になるまで、隣国に出陣すること12度に及んだという。加賀一向一揆との対陣中に病を得て没した。

[松浦義則]

『松原信之著『越前朝倉氏の研究』(2008・三秀舎刊、吉川弘文館発売)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝倉教景」の意味・わかりやすい解説

朝倉教景
あさくらのりかげ

[生]文明8(1476)
[没]弘治1(1555).9.8. 加賀
戦国大名。孝景の子。入道して宗滴。家督相続をめぐる内紛をしずめ,勢力を伸長し,越前一国を平定。のち能登,越前,加賀と転戦し,加賀の一揆と抗戦中に陣中にて没した。家臣の筆録による『朝倉宗滴話記』には当時の武将の心得などが説かれている。

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世界大百科事典(旧版)内の朝倉教景の言及

【朝倉宗滴話記】より

…戦国武将朝倉孝景(英林)の末子教景(宗滴)の雑談を側近の萩原某が筆記したもの。1巻83ヵ条で,成立は弘治・永禄年間(1555‐70)と思われる。《宗滴夜話》《宗滴物語》などの異称がある。朝倉氏の軍奉行であった教景自身の18歳から79歳までの12度に及ぶ実際の戦闘体験をもとに綴られた教訓で,戦国武将の心得がよく説かれている。《続々群書類従》所収。【水藤 真】…

【朝倉敏景】より

…越前の戦国大名。家景の嫡子。幼名小太郎,のち孫右衛門尉,弾正左衛門尉と称す。実名も教景,繁景,孝景と変わった。《朝倉始末記》などによって敏景の名が有名となった。越前守護斯波氏の三家老の一人。主家の内紛に乗じ守護代甲斐氏などの諸氏を圧倒し,一乗谷を本拠として越前を統一し戦国大名に成長。応仁の乱では初め西軍のち東軍に寝返る。家訓《朝倉孝景条々》をのこす。法名英林宗雄。【細溝 典彦】…

※「朝倉教景」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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