朝吹英二(読み)あさぶき・えいじ

朝日日本歴史人物事典 「朝吹英二」の解説

朝吹英二

没年:大正7.1.31(1918)
生年嘉永2.2.18(1849.3.12)
明治時代実業家三井財閥の経営者で,福沢諭吉財界人。三井,三菱両財閥の勤務を体験した。豊前国宮園村(大分県耶馬渓町宮園)の庄屋朝吹泰造と幾能の次男日田,中津,大坂の諸塾に学んだのち,明治3(1870)年,慶応義塾に入学。大坂で攘夷派として福沢暗殺を計画,面談して逆に開国派に転向させられたのが機縁だという。明治8年中上川彦次郎の妹で福沢の姪澄と結婚。11年三菱会社に就職,東京本社に勤務するが,13年福沢が岩崎弥太郎と協力して設立した直貿易(外商の仲介に頼らぬ輸出入)商社・貿易商会に起用され,早矢仕有的社長の下で支配人を務めた。同商会は経営成り立たず,19年経営を中止したので,その整理に当たる一方,福沢の門下生と共に財界,政治活動に従事した。25年には前年に三井銀行役員になり三井財閥の改革を推進していた中上川の招きで三井傘下の鐘淵紡績専務取締役に就任した。以後,中上川に協力するとともに,三井呉服店(三越),王子製紙等三井系諸企業の役員を歴任,三井財閥本社経営陣の一翼をも担った。44年三井関係の役職をすべて辞任した。長男常吉は帝国生命(朝日生命),三越などの社長を歴任した財界人で,その子女には木琴演奏家英一,フランス文学者三吉,登水子,建築家四郎らの多彩な人材が育った。<参考文献>大西理平編『朝吹英二君伝』

(森川英正)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝吹英二」の意味・わかりやすい解説

朝吹英二
あさぶきえいじ
(1849―1918)

実業家。豊前(ぶぜん)国(大分県)下毛郡下郷村宮園に泰造(庄屋)の次男として生まれる。郷里で咸宜(かんぎ)園(1868年入塾)などの有名漢学塾に学ぶ。1870年(明治3)上京、福沢諭吉の書生となり慶応義塾に入塾。1872年慶応義塾出版局に出仕。一時丸屋商社にいたともいうが、1878年三菱(みつびし)商会に入社し、本店支配人を経て1880年貿易商会に移り、取締役兼支配人として直輸出の理想実現に尽力する。1886年同商会事業の事実上の休止により、半浪人生活を余儀なくされたが、義兄中上川(なかみがわ)彦次郎の推挙で鐘(かね)ヶ淵(ふち)紡績に専務取締役として入社。以後、三井呉服店、王子製紙など三井傘下企業の重役、三井合名参事などの重職を歴任した。

[浅野俊光]

『伝記編纂会編『朝吹英二君伝』(1928)』

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百科事典マイペディア 「朝吹英二」の意味・わかりやすい解説

朝吹英二【あさぶきえいじ】

実業家。豊前(ぶぜん)の人。福沢諭吉に愛され慶応義塾に学ぶ。三菱商会支配人,貿易商会取締役を経て,妻の兄中上川彦次郎の招きで1891年鐘淵紡績(現カネボウ)専務となる。のち三井の工業部専務理事としてその工業化に貢献した。のち三井呉服店専務理事,王子製紙取締役を歴任。三井合名参事となる。交詢社の政治活動にも尽力し大隈系の黒幕でもあった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「朝吹英二」の解説

朝吹英二 あさぶき-えいじ

1849-1918 明治時代の実業家。
嘉永(かえい)2年2月18日生まれ。福沢諭吉の書生となって慶応義塾でまなぶ。明治11年三菱商会に入社,13年貿易商会に転じる。25年鐘淵(かねがふち)紡績専務。のち三井工業部,三井呉服店の専務理事,王子製紙会長。大正7年1月31日死去。70歳。豊前(ぶぜん)下毛郡(大分県)出身。

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