朝妻(読み)アサヅマ

デジタル大辞泉 「朝妻」の意味・読み・例文・類語

あさづま【朝妻】

滋賀県米原市朝妻筑摩あさづまちくま付近の古名琵琶湖東岸

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精選版 日本国語大辞典 「朝妻」の意味・読み・例文・類語

あさ‐づま【朝妻】

〘名〙 古い習俗で、通って来た夫が、朝帰って行く、それを送り出す妻をいう。きぬぎぬの妻。
※宇津保(970‐999頃)国譲下「かげふむばかりにて久しう成りぬれど、いと覚束なくて参り給へるなれど、あさづまの心地してなむ」

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百科事典マイペディア 「朝妻」の意味・わかりやすい解説

朝妻【あさづま】

近江国坂田郡の地名で,古来水陸交通の要所であった。現在の滋賀県米原(まいはら)町(現・米原市)にあり,琵琶湖に臨む。《和名類聚抄》に記す坂田郡朝妻郷の郷名を継承し,950年に美濃国の調・庸を運ぶ舟賃が朝妻定として120石とされている(東南院文書)。隣接する筑摩には宮内省膳司の料所として筑摩御厨(みくりや)が置かれ,贄人(にえびと)が醤鮒・鮨鮒・味塩鮒などを納めている(《類聚三代格》)。鎌倉期には京都法勝(ほっしょう)寺領として朝妻荘がみえ,荘内は法勝寺郷・十五条郷などに分割されて支配を受けたが,うち十二条の領家職は亀山院−昭慶門院−世良親王−京都臨川(りんせん)寺と伝領され,地頭は置かれていなかったらしい。西行《山家集》には〈あさづまぶね〉が詠み込まれているが,陸路としても木曾義仲が北陸から入っているほか,一条兼良(かねら)の通行なども知られる。戦国期には朝妻城が築かれ,六角氏浅井氏抗争の場となったが,織田信長の支配下では諸商人の通行を海陸ともに禁じ,1573年には将軍足利義昭の謀反に際して当地から全軍を渡海させるため大船10余艘の建造を命じている。のち長浜湊が開かれ,1603年には彦根藩米原湊を築いたため衰退を余儀なくされた。江戸時代は同藩領の朝妻村として推移,幕末に至る。

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改訂新版 世界大百科事典 「朝妻」の意味・わかりやすい解説

朝妻 (あさづま)

滋賀県米原市にある琵琶湖岸の港。その名のおこりは大和朝妻より朝妻造の一族が移住したとの伝承にある。東山・北陸両道の分岐点箕浦のすぐ西に位置していたため古代より湖北の要港として栄えた。《和名抄》に坂田郡九郷の一つとして朝妻郷がみえ,《延喜式》には皇室の御厨として朝妻筑摩の名がみえる。鎌倉期には朝妻郷の地域を中心とする朝妻荘があり,当初法勝寺領であったが,亀山院-昭慶門院-恒明親王-臨川寺と伝領された。時代が下るとともに朝妻荘は法勝寺郷・十二条郷・十三条郷などに分散して支配された。戦国期には要害の地として朝妻城が築かれ,浅井・六角両氏によって争奪戦がくり広げられた。織田信長が近江を支配するとともに直轄地となり,代官木村藤兵衛により支配された。1603年(慶長8)彦根藩によって米原港が開かれたため衰微した。鎌倉以降,朝妻から大津まで遊女を乗せて遊興し,詩歌の題材として取り上げられた〈朝(浅)妻船〉が往来した。また転じて,船の中で客をとる遊女を朝(浅)妻とも呼んだ。
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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「朝妻」の解説

朝妻
(通称)
あさずま

歌舞伎浄瑠璃外題
元の外題
浪葩准朝妻
初演
天保8.4(江戸森田座)

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世界大百科事典(旧版)内の朝妻の言及

【米原[町]】より

…人口1万2520(1995)。古くから交通の要衝で,天野川河口の朝妻は古代から中世にかけて琵琶湖水運の要港であり,米原は北国街道の,東部の醒井(さめがい)は中山道の宿場町であった。また1603年(慶長8)に開かれた米原湊は松原湊(彦根市),長浜湊とともに〈彦根藩三湊〉の一つとしてにぎわい,朝妻にとって代わった。…

※「朝妻」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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