木地屋(読み)きじや

精選版 日本国語大辞典 「木地屋」の意味・読み・例文・類語

きじ‐や きヂ‥【木地屋】

〘名〙 木彫りなどの材料の木を粗挽きしたり、轆轤(ろくろ)を用いたりして、盆や椀など、塗物ではない木地のままの器類を作る職業。また、その人。木地師木地挽き。轆轤屋。
浄瑠璃・用明天皇職人鑑(1705)職人尽し「親子妹背は情知る野辺の木地屋のろくろ引き」

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デジタル大辞泉 「木地屋」の意味・読み・例文・類語

きじ‐や〔きヂ‐〕【木地屋】

木地びきを職業とする家。また、その人。木地びき。木地師。

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改訂新版 世界大百科事典 「木地屋」の意味・わかりやすい解説

木地屋 (きじや)

木地は,(1)木の地質(木目),(2)細工物の粗形,(3)とくに指物・漆器などに漆その他の塗料を加飾しないものをいうが,このうち(3)を製作することを生業とした職人が,近世以来ひろく〈木地屋〉と呼ばれていた。それも大別すると,(a)指物などの板物細工に従った角物木地,(b)円形木器の挽物(ひきもの)細工に従った丸物木地,(c)杓子・檜物(曲物)など雑多な木地細工に従うものがあった。その中で(b)の丸物木地は,工具に原始的な手びきろくろとろくろがんなを操作して,いわゆる挽物の日用食具(椀,盆,丸膳など)を主に生産して庶民生活にとりわけなじみ深いものであったからか,木地屋といえばもっぱらこの種職人の代名詞のようになっている。挽物を作るので木地挽ともいい,そのほか轆轤師(ろくろし),木地師,狛屋(こまや)などの呼名がある。

木地屋は都市に集住する者もいたが,もともと土地に依存しない非農民で,中世諸職人と同様の漂泊生業者であった。その生活習俗のあらましは《斐太(ひだ)後風土記》に,〈彼らはトチ・ブナ・ケヤキなどの木を伐って椀形にくり,深い奥山の山小屋でろくろを使い椀木地をひく。付近に用材のある間はそこにいて近くの市町(いちまち)の卸店・仕入商人に製品を送り,その代価で生活に必要な米・塩と交易した。そして用材を伐り尽くすとまた他の山に移り一生を同じ山で果てることがなかったので,俗に“木地屋の宿替え”といわれたりした。山小屋の座仕事のため日光に当たることも少なくて,自然男女とも色白で尻腰が大きい者が多かった。昔は親の代替りに,必ず近江の支配所で烏帽子着(えぼしぎ)の儀式をして免許を受けたものという〉などと記している。その彼らの漂泊を会津付近では〈飛(とび)〉といい,近江の支配所の記録には〈渡(わたり)〉という言葉が使われている。

奈良県唐古(からこ)の弥生時代の遺跡出土の遺物からみて,すでにそのころ日本にもろくろによる挽物技術が存在したことは確かである。著名な法隆寺の百万塔も7世紀の挽物である。文献では正倉院文書の関連記事が古いのであるが,それは8世紀のことになる。また宮城県多賀城遺跡や滋賀県鴨遺跡から9~10世紀のろくろ軸の鉄爪条痕の認められる木盤や木器の断片も出土して注目されている。これらの挽物工人は古代の律令国家では轆轤工として宮廷,大社大寺の公的機関に隷属した。しかし律令体制の崩壊で解放され,しだいに地方に分散して庶民の需要に応じ,古代末期~中世は轆轤師に,近世は木地屋と名を変えつつ木地業に従った。日本の漆器工業の陰の力となった功績は,大きいにもかかわらず知られていない。しかし明治の変革で過去の木地屋社会は消滅した。現在観光産業化した東北のこけし人形は,いわばその数少ないなごりといってよい。

 諸地方に残るろくろや木地に関連する地名のほとんどは,轆轤師・木地屋の漂泊の軌跡である。他の諸職人にも先例があるが,彼らの社会でも中世末期から近世にかけ仲間の木地業権益の自衛を画策する者が現れた。近江(滋賀県)小椋(おぐら)谷の轆轤師集団を率いた大岩氏で,はやく都の四府駕輿丁座(しふのかよちようざ)に上番し白川神祇伯家から大工職口銭を徴収される関係にあったらしい。彼らは大陸渡来の秦氏の末裔として祭祀していた八幡神信仰に,中世時宗の聖が唱導した小野神信仰を習合し,職祖惟喬(これたか)親王流寓伝説の縁起書をつくり,ついで2種の偽作綸旨を案出し,時の武家政権の免許状を調整した。それを背景に身分保証の印鑑,宗旨,通行手形を発給して全国的な座的統制を行った。これらを〈木地屋文書〉と呼び,統制のための点検活動を〈氏子狩(うじこがり)〉,小椋谷を〈近江の木地屋根元地〉という。今も各地の山中には,惟喬親王ゆかりの16弁の菊の紋と,〈江州渡木地師何某〉という文字を彫った木地屋墓が残っている。
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日本歴史地名大系 「木地屋」の解説

木地屋
きじや

[現在地名]糸魚川市大所 木地屋

大所おおところ川支流、蓮華れんげ山北麓すぎたいら付近より発する木地屋川流域、標高六二〇メートルで市域最高所の集落。集落の背後にはミョウガが繁殖する。嘉永五年(一八五二)書きはじめの万年帳(ヤジロウ家蔵)に「大所村山内入之平」とある地である。「西頸城郡誌」によると、小掠幸左衛門・弥助の二家が寛政四年(一七九二)大所に入ったと伝える。前記万年帳所収の由緒書によると、当地への移住経路は、江州筒井つつい(現滋賀県)、飛騨、大所、小滝こたき、大所(古木地屋)八百平はつぴやくだいら(現長野県北安曇郡)ささみね(現中頸城郡妙高高原町)、大所とあり、小掠市左衛門の子儀兵衛が飛騨で同族と別れて大所へ入ったとしている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「木地屋」の意味・わかりやすい解説

木地屋
きじや

木地の挽物(ひきもの)をつくる木地師の店。木地挽師・轆轤(ろくろ)師また轆轤屋ともいった。13世紀の鎌倉期には木工から分化していたようである。塗師などの漆塗職人の下職になる者や、挽物に簡単な色をつけたり漆を塗ったりしていた者もある。居職(いじょく)であり、ミズキシラカバ、トチ、ケヤキ、ホオノキなどを材料としていた。木地屋のなかには、木材に恵まれた各地の山村に集落をつくり、椀(わん)、盆、しゃくし、こけしなどの日常生活用具をつくっていた者も多かった。木地屋は文徳(もんとく)天皇の皇子惟喬(これたか)親王を祖神とする伝承をもち、近江(おうみ)(滋賀県)愛智(えち)郡東小椋(おぐら)村(東近江(おうみ)市)の君ヶ畑と蛭谷(ひるたに)とが発祥地であるとされる。鎌倉期以来の木地屋文書をもち、職人としての独特の習俗を残している。小椋、小倉(おぐら)の姓を名のる者は木地屋にゆかりのある者で、各地に分布している。木地師は轆轤師ともいわれるように、挽物の道具はろくろであり、日本の古い工作道具の一つである。このろくろは横軸で一人挽きの手挽きろくろである。台上の両端に柄(え)(軸受)を立て、水平に軸木を通し、その軸木に巻いた革や紐(ひも)を右・左交互に引くと、軸木が交互に回転する。その軸木の一方の先端に何本かの釘(くぎ)か針を刺し、それに加工するものをつけ、「ろくろかんな」という刃物で、またはそれを別の台木(刃物台)で支えて加工造形する。ろくろそのものを回転させるのは家族か徒弟であった。足踏みの一人挽きの前挽きろくろが使われるようになったのは、19世紀後半の明治時代になってからで、昭和に入ってからは一般に電力が利用されるようになったので、加工は効率的となってきた。今日では、手動の手持ちバイトと、旋盤刃物台に機械的に固定した固定バイトが使われている。挽物製品も建築装飾、建具、家具、玩具(がんぐ)、運動具、器械や道具など多方面となっている。

[遠藤元男]

『杉本寿著『きじや』(1952・名古屋営林局/1973・文泉堂)』『中村源一著『ろくろと挽物技法』(1981・槇書店)』『橋本鉄男著『民俗民芸双書88 木地屋の民俗』(1982・岩崎美術社)』『日本木地師学会編『木地師・光と影――もう一つの森の文化』(1997・牧野出版)』『田畑久夫著『木地屋集落――系譜と変遷』(2002・古今書院)』


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百科事典マイペディア 「木地屋」の意味・わかりやすい解説

木地屋【きじや】

山中の木を切り,漆その他の塗料を加飾しない木地のままの器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽ともよばれ,ろくろを用いることから轆轤師ともいう。近江国小椋谷(おぐらだに)の蛭谷(ひるたに)・君ヶ畑(きみがはた)を本貫地とし,惟喬親王を祖神とするという伝説をもつ。良材を求めて諸国の山から山へと漂泊を続け,江戸時代にも蛭谷の筒井公文所(筒井八幡宮),君ヶ畑の金竜(きんりゅう)寺高松御所(大皇(おおきみ)大明神)が発行する偽作綸旨(りんじ)の写しや武家棟梁の免状の写しを権威とし,伐採や通行の自由を主張した。しかししだいに山間に土着して村生活を営むようになり,明治維新後,伝統的な木地屋社会は消滅していった。筒井公文所・高松御所は全国に散在する木地屋をおのおの筒井八幡宮・大皇大明神の氏子として組織し綸旨や免状を発行する代りに氏子狩(氏子駆)と称してなにがしかの奉加料・初穂料そのほかの儀式料を集めて各地を回った。これを記載したものを氏子狩帳・氏子駆帳といい,筒井八幡宮に正保(しょうほう)4年(1647年)から明治26年(1893年)に至る35冊,金竜寺に元禄7年(1694年)から明治にかけての53冊が伝わる。
→関連項目河原巻物行商こけし奈良井椀貸伝説

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旺文社日本史事典 三訂版 「木地屋」の解説

木地屋
きじや

轆轤 (ろくろ) を使い木製日用品をつくる工人の集団
原材を求めて北は会津,西は四国・中国地方などを渡り歩いたが,近代は各地に定住。特権の由緒を示すため惟喬 (これたか) 親王(文徳天皇の皇子)を祖神とする,いわゆる『木地屋文書』(中世末の偽文書)を持つ。これにより近江国小椋 (おぐら) 郷(滋賀県神崎郡永源寺町)が郷里とされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木地屋」の意味・わかりやすい解説

木地屋
きじや

ろくろを使って木材をくりぬき,「挽き物」と呼ばれる日用器物や漆器の素地 (きじ) をつくる職人。かつては良材を求め,山間をさすらう民であったが,次第に定住し,集落を形成するにいたった。明治以降にはほとんど定住生活となった。多数の民俗伝承とともに種々の「木地屋文書」が残っている。

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世界大百科事典(旧版)内の木地屋の言及

【小椋】より

…滋賀県神崎郡永源寺町の愛知(えち)川上流に沿う渓谷一帯(旧,愛知郡東小椋村)の地名。各地に散在する木地屋の根元の地と考えられていた所である。この地の君ヶ畑(きみがはた),蛭谷(ひるたに),箕川(みのかわ),政所(まんどころ),九居瀬(くいぜ),黄和田(きわだ)の6集落は,小椋谷六ヶ畑とも呼ばれた。…

【職業神】より

…山を生活の場とする職種は多様で,それぞれ独特の山の神信仰をもち,また特色ある職種神を信仰してまつる。 山中に樹を切り轆轤(ろくろ)と呼ぶ特殊な工具を使って椀,盆などをつくる工人を木地屋という。木地屋は山を生活の舞台とするため山の神の信仰をもつが,一方でその職能の始祖としての小野宮惟喬(これたか)親王を崇拝した。…

【由緒書】より

…灯炉供御人の全国的組織解体の事態に直面した鋳物師を再組織した真継家が,供御人の伝統を背景にしつつも,戦国時代,諸国にそれぞれ商圏をもつようになった鋳物師の実情,当時の習俗に即しつつ,鋳物師に伝わる伝承を取り入れた由緒書を作成,さらに正確な文書を下敷きにしつつ偽文書を作ったのは,その好例である。惟喬(これたか)親王を職能の祖とする木地屋(きじや)の由緒書と偽文書も,神祇官を通じて天皇に属した轆轤師(ろくろし)の伝統を背景に,江戸時代に入ってから全国の木地屋を組織するために作られたものと思われる。また被差別部落には,〈河原巻物〉ともいわれ,その職能・特権,差別の由来を語るさまざまな由緒書が伝わっているが,そこにしばしば現れる〈延喜御門〉(醍醐天皇)は,16世紀に塩売りとして活動した坂の者(非人)の正当な文書(〈北風文書〉〈八坂神社文書〉)にも現れるので,この由緒書も単に江戸時代に捏造(ねつぞう)されたものではなく,戦国時代のなんらかの事実・伝統を背景にしているのである。…

※「木地屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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