すえ‐の‐まつやま すゑ‥【末の松山】
※
古今(905‐914)二〇・
東歌・一〇九三「きみをおきてあだし心をわがもたばすゑのまつ山浪もこえなん(
みちのくうた)」
※後
拾遺(1086)恋四・七七〇「契りきなかたみに袖をしぼりつつすゑの
松山浪こさじとは〈
清原元輔〉」
[二]
謡曲。四番目物。廃曲。作者不詳。都の貧しい夫婦が
長旅の末、奥州末の松山で、二人の契りはあの松山を波が越えるまで変わらないと誓うが、翌日見ると波が山を越えていたので、二人の契りもこれまでと別れる。のち、夫はこの末の松山で心乱れてさまよっている妻に再会する。
[
補注](一)の
挙例の「古今」を踏まえ、末の松山を波が越すことなどありえないので、それを証として
恋心の不変を誓うと詠まれる。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「末の松山」の意味・読み・例文・類語
すえ‐の‐まつやま〔すゑ‐〕【末の松山】
陸奥の古地名。岩手県二戸郡一戸町にある浪打峠とも、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近ともいわれる。[歌枕]
「きみをおきてあだし心をわがもたば―浪もこえなむ」〈古今・東歌〉
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末の松山
すえのまつやま
末松山宝国寺の境内(裏山)にあり、現在、「はねをかはし枝をつらぬる契」(おくのほそ道)を象徴するかのような二本の巨松がそびえている。しかし芭蕉の訪れた頃の状況は鮮明でない。「観蹟聞老志」には「丘上、青松数十株有り」とあり、「封内風土記」にも「青松数十株」、「八幡村安永風土記」は「末松山之松 五本 但先年八九本ニ御座候処御用木ニ罷成、当時五本ニ罷成」とある。歌枕「末の松山」の比定地。「古今集」に次の歌がある。
<資料は省略されています>
歌枕「末の松山」は、その後興風の歌風に基づく風景詠と、東歌にみられる愛をめぐる詠風との二つの方向に継承されていく。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
末の松山
すえのまつやま
岩手県北部、二戸市(にのへし)と二戸郡一戸町の境界にある浪打峠(なみうちとうげ)付近をいう。貝殻などの化石を含む凝灰質砂岩の波状の交叉(こうさ)層が露出し、『古今和歌集』の「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ」の遺跡地と伝えられるが、歌枕(うたまくら)の「末の松山」の地は、当時、海辺近くにあった宮城県多賀城市の宝国寺背後の丘陵地とされる。丘陵上には2本の老松の大木がある。
[川本忠平]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例