末次信正(読み)すえつぐのぶまさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「末次信正」の意味・わかりやすい解説

末次信正
すえつぐのぶまさ
(1880―1944)

大正~昭和時代の軍人政治家。明治13年6月30日山口県に生まれる。海軍兵学校第27期、海軍大学校甲種学生第7期卒業後、第一潜水戦隊司令官、教育局長などを歴任。1928年(昭和3)海軍軍令部次長となり、1930年のロンドン海軍軍縮条約には加藤寛治(かとうひろはる)軍令部長らと反対し、いわゆる艦隊派を形成した。その後第二艦隊司令長官、連合艦隊司令長官を経て1934年大将に昇進、さらに横須賀鎮守府(よこすかちんじゅふ)司令長官、軍事参議官を歴任して退役後の1937年内閣参議、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の内相となり、1940年には大政翼賛会中央協力会議議長に就任した。潜水艦戦術の権威であり、機略に長じた策謀家といわれ、東亜建設連盟会長を務めるなど右翼の間で人気があった。昭和19年12月29日没。

[木坂順一郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「末次信正」の意味・わかりやすい解説

末次信正 (すえつぐのぶまさ)
生没年:1880-1944(明治13-昭和19)

海軍軍人,政治家。山口県生れ。海軍兵学校,海軍大学校を卒業。1923年少将,第1潜水戦隊司令官となる。27年中将,翌年軍令部次長に就任,加藤寛治軍令部長とともにロンドン海軍軍縮条約に反対し,艦隊派の中心人物として強硬論を鼓吹した。33年連合艦隊司令長官,34年大将,37年予備役となる。第1次近衛文麿内閣内相,大政翼賛会中央協力会議議長などを歴任した。潜水艦戦術の権威であった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「末次信正」の意味・わかりやすい解説

末次信正
すえつぐのぶまさ

[生]1880.6.30. 山口
[没]1944.12.29. 東京
海軍軍人。広島一中を経て海軍兵学校,海軍大学校を卒業後,潜水艦戦術で頭角を現し,『筑摩艦長,第1潜水戦隊司令官,海軍大学教官,教育局長を歴任ののち,1928年軍令部次長となった。ロンドン海軍軍縮条約案審議に際し,補助艦対米7割を主張し,加藤寛治軍令部長とともに条約案に強硬に反対,いわゆる艦隊派を形成した。その後第2艦隊司令長官,連合艦隊司令長官をつとめ 34年大将に昇進。さらに横須賀鎮守府長官,軍事参議官を歴任したのち,予備役となったが,37年第1次近衛文麿内閣の内相に就任した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「末次信正」の解説

末次信正 すえつぐ-のぶまさ

1880-1944 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。
明治13年6月30日生まれ。昭和3年海軍軍令部次長となり,5年軍令部長の加藤寛治(ひろはる)とロンドン海軍軍縮条約に反対。8年連合艦隊司令長官,翌年大将。退役後,第1次近衛内閣の内相。のち大政翼賛会中央協力会議議長。昭和19年12月29日死去。65歳。山口県出身。海軍大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android