本覚寺(読み)ほんがくじ

精選版 日本国語大辞典 「本覚寺」の意味・読み・例文・類語

ほんがく‐じ【本覚寺】

[一] 神奈川県鎌倉市小町にある日蓮宗の寺。山号は妙厳山。永享八年(一四三六)創建。開山は日出。日蓮が佐渡配流から帰って住んだ夷(えびす)堂跡で、のち日朝が身延山から日蓮の遺骨を分骨し、東身延と称した。日朝様。
[二] (「ほんかくじ」とも) 岡山市御津鹿瀬にある不受不施日蓮講門宗の本山。山号は久遠山。文祿四年(一五九五)に端を発する受不施派との争いに破れ幕府の弾圧をうけた不受不施派の法灯を守りぬき、明治一五年(一八八二)復興、鷲峯(じゅぶ)教院と称した。同二三年現山寺号を公許。昭和六〇年(一九八五)日蓮講門宗から現宗名に改称。

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デジタル大辞泉 「本覚寺」の意味・読み・例文・類語

ほんがく‐じ【本覚寺】

神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺。山号は、妙厳山。開創は永享8年(1436)。開山は日出。佐渡流罪赦免後の日蓮が一時滞在した夷堂えびすどうの跡と伝えられ、のち、身延山から日蓮の遺骨が分骨され、東身延と称する。

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日本歴史地名大系 「本覚寺」の解説

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]小松市寺町

てら町の通りに東面している。足羽山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。越前和田わだ(現福井市)の本覚寺の流れをくみ、同寺が加賀に設けた通寺(掛所)をその前身とする。貞享二年寺社由緒書上が文明二年(一四七〇)蓮光による開創を主張するのは、和田本覚寺蓮光による加賀通寺設置を物語るものと解釈される(小松本覚寺史)。和田本覚寺は「反故裏書」によれば、鎌倉時代末期頃高田派の三河国野寺本証のでらほんしよう(現愛知県安城市)の末学であった越前足羽あすわ郡和田の信性の道場に始まる。一五世紀初め頃門徒の一部が分れて藤島超勝ふじしまちようしよう寺が分立した後、一五世紀前半頃本覚寺の寺号を公称したと推定される。長禄元年(一四五七)一〇月二五日の光明本尊(春木家蔵)裏書に、「越前和田本覚寺御門徒 加州松任本誓寺弟子 山内新保性善礼拝」とあり、松任本誓まつとうほんせい寺がすでに本覚寺門徒としてみえる。奈良興福寺大乗だいじよう院領越前国河口かわぐち(現福井県坂井郡)内に名田や別当職をもち(「大乗院寺社雑事記」長禄三年四月二三日条・文正元年七月一日条)、文明三年以来の本願寺蓮如の吉崎よしさき(現福井県金津町)における布教活動を支え、同七年蓮如退去後の吉崎道場の留守職を預かっている。同一三年祇園社領加賀国刈野かるがの(現宇ノ気町)の本役年貢違乱停止が本覚寺と大坊主中に命じられている(同年一一月九日「室町幕府奉行人連署奉書」八坂神社文書)

永正三年(一五〇六)越前・加賀の一向一揆を率いて朝倉氏と対決したが、敗れて寺を破却され(朝倉始末記)、藤島超勝寺とともに寺基を加賀へ移した。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]下京区本塩竈町

浄土宗。仏性山と号し、本尊阿弥陀如来。「雍州府志」は本尊について「旧遍照心院之本尊而源実朝公之室本覚尼公之持仏也、有故置斯寺、依之号本覚寺」と記し、寺伝も貞応元年(一二二二)源実朝の夫人、内大臣坊門信清の女が尼となって本覚と号し、八条通照心しようしん院の寺内に真言律宗の一宇を建立、本覚寺と称したという。翌年うめ小路堀川ほりかわ(現下京区)に移り、その後数次の兵火により荒廃したという。応仁の乱以後の景観を描くという中昔京師地図には、八条大路と梅小路の間、坊城ぼうじよう小路東(現同区)の地に「本覚寺」と記す。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]永平寺町東古市

東古市ひがしふるいちの北東部、九頭竜くずりゆう川の南岸にある。和田山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。下寺二二ヵ寺を有し、門末五千といわれた北陸地方有数の大坊。開基については諸説あるが、親鸞―真仏―専海―円善と法脈を継いだ三河門徒系の信性を祖とするのが有力である。足羽あすわ和田わだ荘に寺基を定めたのは一四世紀頃と考えられ、以後和田本覚寺として知られた。当初高田派であったが、応長元年(一三一一)本願寺三世覚如の教化を受け、本願寺派になったという。信性の死後、門末は分裂、超勝ちようしよう(現福井市)もこの時分立したとされる。

本覚寺
ほんかくじ

[現在地名]御津町鹿瀬

国道五三号に沿った鹿瀬かせ集落の西側にある。不受不施日蓮講門宗の本山。山号は久遠山。本尊は宗祖日蓮の妙法曼荼羅。安国院日講を派祖とする日蓮宗不受不施講門派の系譜をひく。日講は寛文六年(一六六六)の不受不施派弾圧(寛文法難)のとき、日向国佐土原さどはら(現宮崎県宮崎郡佐土原町)の領主島津忠高預となった不受不施僧で(寛文年録・説黙日課)、学者としても名高く、寛文法難にあった僧のうち最後まで存命しており、全国の信者に与える影響力は大きかった。天和二年(一六八二)岡山城下の信者宅で法立ほうりゆう(清者・半僧半俗)宗順が、内信者の仏壇を拝し導師をつとめたことが原因で、不受不施派内部で対立が起こった。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]婦中町富崎

富崎とみさき集落中にあり、神保山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。開基は明雲、俗名は飛騨国吉城よしき袈裟丸けさまる(現岐阜県古川町)の藤岳時好といい、康永二年(一三四三)法覚寺(本覚寺の前身)を建立したという(婦負郡志)。文明九年(一四七七)兵火によって退転し、永正二年(一五〇五)七世無雲が越中へ来て婦負郡ふくろ村に移転し、同一三年現在地に一宇を建立して守護代神保氏の菩提所になったという(「同寺由緒書」本覚寺文書)

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]鎌倉市小町一丁目

なめり川右岸、夷堂えびすどう橋の前にある。日蓮宗、妙厳山本覚寺と号する。本尊三宝祖師。もと身延山久遠くおん寺末。別に東身延といい、日朝様と俗称する。創建は、宝永三年(一七〇六)の寺々境内開基年数改帳(寺蔵)は応永二八年(一四二一)と伝え、「石渡新造左衛門之碑銘」では永享八年(一四三六)の開創、開山は一乗房日出とする。寺伝ではこの地に天台宗の夷堂があったのを日出が改宗したといい、その本尊という南北朝期の木造釈迦如来坐像、文殊・普賢両菩薩坐像を伝蔵する。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]三島市泉町

江戸時代の三島町にある日蓮宗寺院。山号は常住山、本尊は十界大曼荼羅。文明六年(一四七四)八月日の日朝置文(本覚寺文書)に「豆州三嶋常住山本覚寺」とみえ、日朝は当寺住持に権律師日東を補任している。なお当寺には応永二八年(一四二一)正月一日付の日出願文が残されており、この中で日出は「三嶋弘通作トテ、法界衆生大導師トシテ可給」と願っているので、一五世紀半ばまでには当寺が創建されたのではないかと思われる。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]羽島市竹鼻町

通称福江ふくえ町にある。真如山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。永禄元年(一五五八)竹鼻たけがはな城主不破源六が始祖本覚寺殿のために一宇を建立、正眼しようげん(現愛知県小牧市)八世玄沢を招いて開山としたと伝える。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で竹鼻城落城のとき類焼したが、その後再興された。安永三年(一七七四)再び火災に遭い、天明六年(一七八六)本堂が再建された(羽島市史)。山門は左甚五郎の弟子慶助の建立である。竹鼻城主杉浦重勝から寄付された梵鐘があり、法要および城中の時の鐘として用いていたが、享保一六年(一七三一)鋳替えた(開枕銘)。新鋳の鐘は「開枕」とよばれ、年中無休で時を告げていたが、第二次世界大戦中供出された。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]清水町笹谷

笹谷ささだにの枝村であった野口のぐちの西方山麓にある。紫光山と号し、真宗山元派。本尊阿弥陀如来。もと天台宗で、中世末に改宗したと考えられる。初めは山内やまうち村の枝村仏木ほうてん村にあった。文政一三年(一八三〇)四月日付の当寺由緒書によると、慶長三年(一五九八)正月二一日付の「山内村道覚門前の家拾間諸公事免除」の高橋良珎免状があったという。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]今別町今別

集落中央に広い境内を占める。始覚山と号し、浄土宗、還洞院本覚寺と称する。本尊阿弥陀如来。

古くは羽黒修験に属し、慶安四年(一六五一)湯殿ゆどの(現山形県東田川郡朝日村)の別当大日坊から法滝山延命寺吉祥院の三号を受け、その後承応二年(一六五三)磐城の専称せんしよう(現福島県いわき市)の支配となり、明暦三年(一六五七)専称寺の直末となる。中興開山の五世貞伝は碩徳の名があった(新撰陸奥国誌)。享保一二年(一七二七)に貞伝が建立した念仏名号塔(青銅塔婆、県重宝)は高さ三メートル余で、開眼供養には貞伝の名を慕って領内はもちろん遠く秋田・南部からも参詣者があったという。

本覚寺
ほんかくじ

[現在地名]八戸市十一日町

十一日じゆういちにち町の南に位置する。平沢山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寛保四年(一七四四)の諸寺院寺号山号帳(八戸市立図書館蔵)に「一京都本願寺御門跡末寺 平沢山本学寺」とある。八戸藩成立後の開創で、開基は八戸藩士の池田宗晴、開山は盛岡もりおか(現岩手県盛岡市)願教がんきよう寺の覚翁とされる(「御領内寺院来由全」八戸市立図書館蔵)

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]東区徳川二丁目

大曾根坂下おおぞねさかした町坂口の西側にあり、照瑞山と号し、日蓮宗。本尊は木造法華経題目宝塔。もと京都妙伝みようでん(妙満寺)の末寺(一説に安房小湊誕生寺末寺)。開山は受泉坊日述で、初め清須きよす(現西春日井郡清洲町)にあって本法寺と称したが、寛永年間(一六二四―四四)大曾根村坂上に移り、まもなく廃寺となった。正保五年(一六四八)恵性院日相が本尊および祖師像を現在地にもたらして再興し、本覚寺と改称した。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]神奈川区高島台

京浜急行電鉄神奈川駅の北西、標高三五メートルの高台にある。青木山延命院と号し、曹洞宗。本尊は地蔵菩薩。嘉禄二年(一二二六)草創され、栄西を勧請開山とする。初め臨済宗に属したが、その後荒廃し、天文元年(一五三二)小机こづくえ(現港北区)雲松うんしよう院三世陽広元吉が再興し、曹洞宗に改めたという。元禄初年焼失し、享保年間(一七一六―三六)一〇世梁国が本堂・庫裏を再建。安政六年(一八五九)横浜開港にあたり、下田しもだ(現静岡県下田市)を引払った米国公使タウンゼント・ハリスは神奈川領事ドールを住まわせ、アメリカ領事館として用いられた。

本覚寺
ほんかくじ

[現在地名]上宝村本郷 若田林

本郷ほんごう集落の南西、在家ざいけとの境にある。高原山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。吉野よしの村の天台宗七宝山荘厳しようごん寺が、文永年中(一二六四―七五)兵火に遭い廃絶していたのを、天正一三年(一五八五)金森家臣牛丸又右衛門が再建し、法名によって正参寺と号したという説と、江馬家二代高原太郎平朝方が、荘厳寺の廃れていたのを文永年中再興し高源山本閣寺と改め臨済宗とし、その子時信を出家させて道源と名付け開山としたとする説がある。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]熊本市横手一丁目

妙永みようえい寺の寺地内にあり、東光山と号し、日蓮宗、本尊十界互具曼荼羅。「国誌」に「清正侯ノ寵妾法号本覚院月心日円大姉ノ為ニ、慶長年中建立之、開山日真上人也、清正侯忠広侯二代毎歳米二百俵納之、其後寺納ハ断絶ス、寺中観音堂アリ」と記される。観音堂について「国誌」は「雑華錦語集」を引用し、「本覚寺如意輪観世音縁起曰(中略)開山日真上人或夜ノ夢想ニ木原山円福寺ノ本寺土中ニ埋レリトノ告ヲ得テ(中略)土中ヨリ得ル処ノ霊仏ナリ、其霊験枚挙ニ遑アラス」と記している。観音堂が六角形をしていることから本覚寺を六角堂と称し、安産祈願の参詣で賑う。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]下関市大字豊浦町

忌宮いみのみや神社の北東にあり、旧山陽道に面する。浄土宗で法性山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「豊府志略」によれば、開山は円誉であるが開創年次は不明。当寺はかつて土肥どひ山の麓にあって称念しようねん寺と称し、寺中に千体の地蔵を安置して、ここからの清水を千体水と名付けていたという。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]徳島市寺町

てら町の南西、妙典みようてん寺の南方にある。光輝山と号し、日蓮宗。本尊は十界曼荼羅。すみ寺ともよばれる。「阿波志」によるとかつては板野いたの勝瑞しようずい(現藍住町)にあり、承応年中(一六五二―五五)寺町に移った。

本覚寺
ほんがくじ

[現在地名]川内町川内 川内

通称しん町の西に位置する。真如山と号し、法華宗本門派。本尊は十界曼荼羅。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「本覚寺 真如山田名部善宗寺末寺」とある。万治三年(一六六〇)の草創と伝え、開山は能登本覚寺(現石川県金沢市)の僧日住とされ(新撰陸奥国誌)、開基は廻船問屋能登屋長右衛門という(下北半嶋史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「本覚寺」の意味・わかりやすい解説

本覚寺
ほんがくじ

神奈川県鎌倉市小町(こまち)にある日蓮(にちれん)宗の寺。妙厳(みょうごん)山と号する。また、日朝(にっちょう)さま、東身延(ひがしみのぶ)とよばれる。本尊は三宝祖師。室町時代、源頼朝(よりとも)建立の夷(えびす)堂の地に一乗房日出(いちじょうぼうにっしゅつ)が開山。寺伝では、天台宗であった夷堂を日出が改宗したと伝える。2世日朝のとき身延山から日蓮の遺骨を分移、東身延と称し栄えた。その本尊という南北朝期の木造釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)、文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)両菩薩(ぼさつ)を伝蔵する。1850年(嘉永3)の境内図によると、かつては広い寺領であったことがわかる。寺宝に開山永享(えいきょう)問答記録、日朝書簡などを蔵し、江戸期建造の分骨堂、仁王門がある。7月24日に日朝上人(しょうにん)大会(だいえ)を行う。

[田村晃祐]

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デジタル大辞泉プラス 「本覚寺」の解説

本覚寺

青森県東津軽郡今別町、津軽半島にある寺院。浄土宗。山号は始覚山。1651年創建と伝わる。県指定の重要有形文化財、青銅塔婆がある。

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世界大百科事典(旧版)内の本覚寺の言及

【吉崎】より

…1471年(文明3)7月本願寺蓮如が同地に下向した。蓮如の北陸下向は大谷破却,堅田大責(おおぜめ)などの山門の圧迫を避けるためで,父存如の代に帰参した,北陸一帯に勢力を有する越前和田本覚寺系の門流の支援を期待してのことであった。とくに吉崎を選んだのは,蓮如と大乗院経覚が姻戚関係にあり,細呂宜郷が経覚の隠居料所であったこと,また本覚寺が同郷別当職に補されており,当時北潟湖に注いでいた大聖寺川の対岸鹿(加)島に蓮如の四男蓮誓が坊舎をかまえていたことなどによる。…

※「本覚寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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