本願寺(読み)ほんがんじ

精選版 日本国語大辞典 「本願寺」の意味・読み・例文・類語

ほんがん‐じ ホングヮン‥【本願寺】

真宗の本山。現在は西本願寺東本願寺の二つがある。親鸞の死後、文永九年(一二七二)に京都東山大谷の地に墓をたて御影堂を建立したのがおこりで、鎌倉末期から本願寺と称する。天正一九年(一五九一豊臣秀吉の寺領寄進により現西本願寺の寺基が定まる。さらに本願寺一一世顕如の没後、長子教如、次子准如の間で継承問題が起こり、准如が一二世を継いだことにより教如は慶長七年(一六〇二徳川家康が寄進した地に一寺を建立、本願寺と称して分立したのが現東本願寺である。

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デジタル大辞泉 「本願寺」の意味・読み・例文・類語

ほんがん‐じ〔ホングワン‐〕【本願寺】

京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山。山号は、竜谷山。通称、西本願寺。文永9年(1272)親鸞しんらんの娘覚信尼が、親鸞像を安置した御影堂を吉水よしみずに建てたのを起源とする。北陸・京都山科やましな・大坂石山など各地を転々としたのち、天正19年(1591)豊臣秀吉から現寺地を寄進されて移転。慶長7年(1602)大谷派分立後は、本願寺派の本山として西国地方を主に末寺1万余寺を擁する。現存の堂宇は、元和3年(1617)焼失後に再建されたもの。飛雲閣聚楽第じゅらくだいからの移築、書院・唐門などは伏見城の遺構。建造物の多くが国宝や重要文化財。寺宝に親鸞聖人影像・三十六人家集(以上国宝)など多数がある。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。本派本願寺。お西。→築地別院津村別院
京都市下京区にある真宗大谷派の本山。通称、東本願寺。本願寺12世宗主となった教如が、豊臣秀吉により直ちに弟の准如じゅんにょに宗主を譲らされ、慶長7年(1602)に徳川家康から寺地を寄進されて創建。寺宝には、親鸞筆の「教行信証」(国宝)など多数。大谷派本願寺。お東。→大谷派

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本願寺」の意味・わかりやすい解説

本願寺
ほんがんじ

浄土真宗本願寺派(通称西本願寺)本山、真宗大谷(おおたに)派(通称東本願寺)本山。

[清水 乞]

歴史

1262年(弘長2)親鸞(しんらん)は弟尋有(じんゆう)の善法坊にて死去、東山の西麓(せいろく)にあった延仁寺において荼毘(だび)に付され、東山大谷の地に葬られた。1272年(文永9)門弟の総意によって親鸞の娘覚信尼(かくしんに)が、再嫁した小野宮(おののみや)禅念の私有地吉水の北に改葬し、ここに六角形の草堂を建てて木彫の影像を安置した。これが大谷本廟(ほんびょう)(現在の知恩院山門の北、崇泰院の裏庭あたり)で、本願寺の起源である。のちに大谷本廟は1603年(慶長8)知恩院拡張のため東山五條(ごじょう)坂に移される。覚信尼は禅念の死後、1277年(建治3)廟堂の土地を寄進し門弟の共有とし、その管理役(留守職(るすしき))となった。留守職は長子覚恵(かくえ)に譲られたが、覚恵の異父弟唯善(ゆいぜん)と争いを生じる。1309年(延慶2)青蓮院(しょうれんいん)の決裁によって唯善は敗れ、翌年覚恵の長子覚如(かくにょ)が第3代留守職となる。唯善は廟堂を破壊して関東に逃れたが、廟堂は1311年(応長1)復興された。翌12年(正和1)廟堂に「専修寺」の額を掲げるが、叡山(えいざん)の反対により撤去される(この額は高田専修寺に移る)。

 本願寺の名称は、その後まもなく用いられたようで、1321年(元亨1)の文書にその名がみえ、1333年(元弘3・正慶2)には本願寺と久遠寺(くおんじ)が護良(もりよし、あるいは、もりなが)親王の祈願所とされている。1336年(延元1・建武3)廟堂は足利尊氏(あしかがたかうじ)の兵火により焼失、38年、古い堂舎を移築する。ここに廟堂は六角堂から一般の寺院建築となり、形式上も寺院となる(一説に移築を唯善による破壊のときとする)。1357年(正平12・延文2)第4世門主善如(ぜんにょ)のとき、後光厳(ごこうごん)天皇の勅願寺となるが、第8世門主蓮如(れんにょ)までの本願寺は漸興期にあったといわれる。

 1465年(寛正6)蓮如の時代、本願寺の活況は叡山の反感を買い、堂舎が破壊され、ここに東山大谷の本願寺は終わる。

 蓮如は近江(おうみ)国(滋賀県)三井寺(みいでら)の南別所近松に小堂を建てて御真影を安置したが、応仁(おうにん)の乱により北陸に移る。越前(えちぜん)国(福井県)吉崎(よしざき)を中心に活躍したが専修寺門徒により焼かれ、小浜(おばま)―河内(かわち)出口と転じ、1478年(文明10)京都山科(やましな)に本願寺の再興を企てる。寺地は山科西宗寺の浄乗(じょうじょう)が寄進し、堺(さかい)より信証院を移築し、5年後に完成した。1532年(天文1)本願寺の勢力を危惧(きぐ)した細川晴元(はるもと)は六角定頼(さだより)と組み、日蓮宗徒を抱き込み、堂宇を焼く。このとき、大坂にいた第10世証如(しょうにょ)は1533年大坂御坊を本願寺とする。これが石山本願寺である。証如の子顕如は織田信長と戦い(石山合戦)、1580年(天正8)顕如は紀州(和歌山県)鷺ノ森(さぎのもり)に退いたが、1591年(天正19)豊臣(とよとみ)秀吉の援助により京都六条堀川に移る。しかし第12代相続にあたり1602年(慶長7)顕如の長男教如は徳川家康より京都烏丸(からすま)に寺地を与えられて本願寺を別立し、ここに西本願寺と東本願寺に分裂した。

[清水 乞]

西本願寺

京都市下京(しもぎょう)区堀川通花屋町下ル。浄土真宗本願寺派本山。龍谷(りゅうこく)山と号する。覚信尼の開基。1272年開創。正しくは本願寺と称し、東本願寺に対して西本願寺、「お西」と通称する。第11世門主顕如は豊臣秀吉の援助によって1591年六条堀川に本願寺を移築し、翌年には阿弥陀(あみだ)堂をはじめ諸堂が建造される。この年顕如が没し、秀吉は長男の教如に第12世門主を継ぐことを勧めたが、石山合戦のとき、父と対立した教如は弟の准如(じゅんにょ)にその職を譲り隠居する。1602年准如が正式に第12世門主を継ぎ、西本願寺は再出発する。1617年(元和3)浴室から出火、御影堂、阿弥陀堂など諸堂宇を焼失。1630年より秀吉の聚楽第(じゅらくだい)から飛雲閣(国宝)が移築され、伏見(ふしみ)城から書院、唐門(からもん)(ともに国宝)、能舞台(国重要文化財)が移転されたという。また1636年(寛永13)には御影堂が再建、1760年(宝暦10)には阿弥陀堂が再建され、伽藍(がらん)は整備された。他方、1639年一信徒の寄進によって学寮がつくられ宗学の中心となる。この学寮はのちに学林とよばれ、学頭職、能化(のうけ)職が置かれた。1797年(寛政9)第6代能化の功存(こうそん)、第7代能化の智洞(ちとう)らが異安心(いあんじん)を唱え、宗学が混乱したため能化職は廃止され、1824年(文政7)勧学職を置くことになった。

 明治時代には率先して学術研究に力を注ぎ、第22世鏡如(きょうにょ)(大谷光瑞(こうずい))は1902年(明治35)より1914年(大正3)にかけて西域(せいいき)探検隊を組織して現地調査を行った。また宗内の教育体制の確立も早く、1875年学林を廃止して、大・中・小教校を設置、1900年には大学以下2種の学校を置いた。現在宗立の学校は大学9校(短大、中・高校併設を含む)に及ぶ。西本願寺は火災にあうことが少なく、国宝、国重要文化財指定のものが多い。また寺宝として親鸞聖人像、『三十六人家集』(以上、国宝)、『慕帰絵詞(ぼきえことば)』『伏見(ふしみ)天皇宸翰(しんかん)御歌集』(以上、国重文)など名宝が多い。1994年(平成6)、本願寺(西本願寺)は世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[清水 乞]

東本願寺

京都市下京区烏丸通七条上ル。真宗大谷派本山。正しくは本願寺という。西本願寺に対して東本願寺、あるいは大谷本願寺、「お東」と通称する。教如の開基。1272年開創。顕如の長男教如は1602年徳川家康より与えられた現在の地に大師堂(古くは祖師堂という。本願寺派の御影堂)をはじめ伽藍を建立。大師堂の完成は1604年で、ここに上州厩橋(うまやばし)妙安寺より親鸞自刻と伝えられる木彫親鸞像が安置された。教如は1614年死亡し、宣如が後を継ぐが、生涯を裏方として終わった。1619年の「本願寺内敷地御寄附状」に現在地寄付のことが記されているので、宣如の代に東本願寺に幕府から公認されたことになる。1639年家康は渉成園(しょうせいえん)(枳殻(きこく)邸)の土地を寄進。1652年(承応1)より58年(万治1)にかけて大師堂の改築、65年九州観世音寺(かんぜおんじ)の講堂を渉成園に移し学寮とした。67年第15世常如は本堂の改築を行っているが、その後、天明(てんめい)(1781~89)、文政(ぶんせい)(1818~30)、安政(あんせい)(1854~60)とたび重なる火災により堂宇を焼失し、現在の本堂と大師堂は1895年(明治28)の再建。そのほか勅使門、宮御殿、書院などの建築物も明治時代のものである。西本願寺と同様、宗学の顕揚に努め、学寮に講師職を置き(1715)、明治時代には梵(ぼん)文書の翻訳などに力を注ぎ、仏教学研究に先駆的役割を果たした。1875年(明治8)大・中・小教校を設けて宗門子弟の教育を行った。これが現在の大谷大学など宗立学校の前身である。寺宝に親鸞自筆『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(国宝)、親鸞聖人画像(安城御影)、本願寺聖人伝絵(ともに国重文)などがある。

[清水 乞]

『井上鋭夫著『本願寺』(1981・至文堂)』『浜田隆著『本願寺』(1975・中央公論美術出版)』『宮崎円遵著『東西本願寺』(1962・教育新潮社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「本願寺」の意味・わかりやすい解説

本願寺 (ほんがんじ)

京都市下京区にある浄土真宗の本山。七条堀川の西本願寺と七条烏丸の東本願寺の両寺がある。1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。72年(文永9)親鸞の門弟や末娘覚信尼は,墓所の北,吉水の覚信尼住地に廟堂を建て親鸞影像を安置した。これを大谷廟堂と称し,覚信尼および彼女の子孫が留守職(るすしき)となりその管理に当たった。2代留守職は覚信尼の子覚恵,3代は覚恵の子覚如が継承した。覚如は廟堂を寺院化しようと図り,1312年(正和1)廟堂に専修寺の額を掲げたが,比叡山僧徒から専修念仏禁止いらい使用してはならない専修の語を寺号にすることについて抗議をうけ,寺額を撤去した。その後間もなく本願寺と称したらしく,1321年(元亨1)鎌倉幕府への愁申状にはじめて本願寺号がみえる。これは親鸞の門徒が一遍の時宗の一流と混同されていることを訴え,その解除を申請した文書で,最初に〈本願寺親鸞聖人門弟等謹言上〉と書き,親鸞の全門弟を本願寺のもとに統合することを示した。さらに本願寺の住職は堂舎の管理人ではなく,教団の思想的統括者としての資質をも具備するとして,覚如は三代伝持の血脈を説いた。浄土真宗の法統は法然・親鸞・如信(親鸞の嫡孫)を経て覚如に引きつがれたという主張である。しかし,本願寺を教団の中心に位置づけようとする覚如の意図は門弟たちの協力を得られず,かえって各地に,有力門弟を中心に独立する傾向が強くなった。

 1457年(長禄1)本願寺8世となった蓮如は,親鸞の同朋思想に基づく布教を精力的に展開し,近畿を中心に教勢をのばしはじめた。これをみた比叡山僧徒は,65年(寛正6)本願寺の堂舎を破却,蓮如は近畿各地を転住ののち71年(文明3)越前国吉崎に坊舎を営み,ここを拠点に北国の布教に当たった。このころ蓮如は,平易な文章で教義を表現した〈御文(おふみ)(御文章)〉(《蓮如仮名法語》)によって農民を教化した。農民を対象とする蓮如の布教は,ちょうど彼らが展開した支配者への闘争の時運に合致し,吉崎御坊は北陸農民の闘争拠点となった(加賀一向一揆)。その混乱を避け,75年蓮如は吉崎を去り,近畿の布教に従事した後,80年京都山科に山科本願寺を建て本拠とした。蓮如は積極的な教化により末寺・門弟を組織化し,本願寺教団を一大勢力として確立した。89年(延徳1)蓮如は職を実如に譲り隠退,96年(明応5)摂津国大坂に坊舎を建て隠棲した。のちの石山本願寺である。

 1532年(天文1)山科本願寺が細川晴元との争いで焼かれ,10世証如は本拠を大坂に移した。この時代は相争う戦国大名間にあって,社会的勢力として成長した教団存続のため,大名化した立場で寺の運営を図り,石山本願寺には寺内町ができ,自治組織が整備された。証如の家臣下間(しもつま)頼秀・頼盛兄弟は〈天下の武士を攻めほろぼして,本願寺の上人を天子とし,我身は将軍と仰がれて四海を呑まん〉との壮大な野心を持つ政略家であったという。こうした背景には,本願寺の有する莫大な財力があり,その財源は全国に組織した講から送られてくる志納金と領国加賀からの年貢等であった。キリスト教宣教師ガスパル・ビレラはその報告書に〈日本の富の大部分は此坊主(本願寺住職)の所有なり〉と書き記している。また朝廷や公家に献金して《三十六人集》《栄花物語》などを賜り,1559年(永禄2)には門跡に列せられた。天下統一に着手した織田信長がこの地を入手しようと図り,70年(元亀1)本願寺を攻め,石山合戦(石山本願寺一揆)が始まった。80年(天正8)朝廷の斡旋により信長と講和し,11世顕如らは石山本願寺を退去して紀伊国鷺森に寺基を移した。その後83年和泉国貝塚,85年大坂天満(てんま)を経て91年豊臣秀吉の命により京都七条堀川に寺を移した(西本願寺)。1592年顕如の没後,長男教如が継職したが,故あって翌年弟准如に譲り隠退した。1602年(慶長7)教如は徳川家康から寺地を七条烏丸に得て寺を造建(東本願寺)。ここに本願寺は東西両派に分かれた。

 現在,西本願寺は浄土真宗本願寺派本山で,竜谷山と号し俗に〈お西〉と呼ばれる。東本願寺は真宗大谷派本山で,俗に〈お東〉と呼ばれる。当初本願寺は狭い土地に建てられた小堂にすぎなかったが,いずれも広大な境内地を占め,大伽藍を構成する寺院へと発展した。また親鸞の時代に100人ほどの門弟を中心に結ばれていた念仏集団は,寺院2万1000余,僧侶3万5000余,門信徒は日本の人口の約10%を占めるといわれる大教団に成長し,そのうち両本願寺で約8割以上を占めるに至った。
一向一揆
執筆者:

西本願寺の伽藍は堀川通りに東面した正門を入ると,正面南に大師堂,北に本堂が廊で接続されて横に並び,真宗寺院の典型的配置をとる。大師堂(1636,重要文化財),本堂(1760,重要文化財)はそれぞれ御影堂,阿弥陀堂とも呼ばれ,とくに大師堂は宗祖親鸞をまつる当寺の中心的な建物で本堂より大規模になり,堂内は僧侶の空間である内陣より俗衆門徒が入る外陣が広くつくられるなど,近世真宗寺院に特有の構成をもつ。寺域の南部には殿舎群があり,南辺に建つ唐門(江戸時代初期,国宝)は四脚門,屋根は前後唐破風造側面入母屋で豊国神社唐門と同一形式である。中央上部の太(大)瓶束(たいへいづか)左右の牡丹に唐獅子の透彫,冠木上の大蟇股に孔雀の丸彫を入れ,その左右を松竹の彫刻で埋めるなど,豪華な建築彫刻に桃山風の特色をみることができる。殿舎は玄関・浪之間・虎之間・太鼓之間(以上,重要文化財),対面所と白書院からなる書院(国宝),さらにその北奥に黒書院および伝廊(国宝)がある。対面所は162畳の広大な下段と37畳半で床の間や帳台構(ちようだいがまえ)を設けた上段,さらに右手には棚と付書院のある上々段からなり,天井・壁・障子は金碧画で豪華に飾られ,とくに上段,下段境の大欄間に雲中飛鴻の透彫があるところから鴻(こう)の間とも呼ばれる。白書院は上段・二の間・三の間からなり,床・棚・付書院・帳台構を配した典型的な書院造建築。なお書院および唐門は伏見城の遺構を移建したものと伝えられてきたが,近年では1632年(寛永9)ころの新築とみられるようになった。黒書院(1657)は門主の私室であったため,対面所の豪華な意匠に対して,面皮柱でしつらえるなど数寄屋風の瀟洒な手法をとり入れた建物である。なお白書院前庭の北能舞台(1581,国宝)は能舞台中現存最古の遺構。他に著名な建築として飛雲閣がある。寺宝では《親鸞聖人像》(鎌倉時代,国宝)があり,親鸞存命中の寿像で似絵(にせえ)の特色をもち,〈鏡御影(かがみのみえい)〉と呼ばれている。他に3世覚如の絵伝《慕帰絵詞》(室町時代,重要文化財),後鳥羽天皇宸翰11通を含む〈熊野懐紙〉(鎌倉時代,国宝),《三十六人集》(平安時代,国宝)などがある。

 東本願寺は烏丸通に東面し,北に大師堂,南に本堂がならびたち,西本願寺とは逆の伽藍配置をとる。大師堂は1895年再建で,現存するものでは東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築。寺宝には開祖親鸞が著した真宗の聖典《教行信証》(国宝)があり,親鸞の真筆として仏教史上貴重である。
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日本歴史地名大系 「本願寺」の解説

本願寺
ほんがんじ

[現在地名]久美浜町 十楽

旧久美浜村の東山麓、通称十楽じゆうらくの小字古神谷こかんだににある。山号霊鴫山、浄土宗で本尊は阿弥陀如来。

寺伝によると、天平二年(七三〇)行基が当地に立ち寄った時、一本の大樹に群集していた鴫がたちまち仏の姿になって西に去ったのをみた。行基は感ずるところがあってこの地に寺を建て、鴫の群集していた木で阿弥陀仏を刻み、その余材で千体仏を刻んで安置し、山号を霊鴫山と号する法相宗寺院とした。

その後寛弘元年(一〇〇四)頃、恵心僧都が天橋立の文殊(智恩寺、現宮津市)に参詣した夜、本願寺の荒廃しているのを再興せよとの夢をみて各坊を復興、それ以後天台宗になった。

本願寺
ほんがんじ

[現在地名]鳥取市寺町

てら町のほぼ中央にある。撰択山と号し、浄土宗。本尊は聖徳太子の作と伝える阿弥陀如来。近世には鳥取城下ふくろ(旧袋川)土手筋から北東寺町袋町へ続く通りにあり、道を隔てた南西向いは妙要みようよう寺。寺域一千一四六坪余、末寺一ヵ寺があった(明治四年「因州分寺院籍」県立博物館蔵)。当寺八世勧誉の記した縁起の写(「鳥取市寺院縁起集」同館蔵)によると、宮部善祥坊継潤が天正年中(一五七三―九二)但馬国豊岡城に在城のとき来迎らいごう寺を建立し、当時丹後国久美浜くみはま(現京都府久美浜町)の本願寺二一代の住職であった法蓮社栄誉をもって開山とした。その後天正一〇年宮部継潤が鳥取城主として入国のとき栄誉は同氏に従って因幡に来住、本願寺を創建したと伝える。

本願寺
ほんがんじ

[現在地名]取手市青柳一丁目

光明山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。付近に寺坪てらつぼ寺西橋てらにしばし寺前橋てらまえばしの地名が残る。縁起によれば応永年間(一三九四―一四二八)に了誉聖冏が開いた。「寛政重修諸家譜」によれば井野いの村に住した本多重次は慶長元年(一五九六)に没し、「青柳村の本願寺に葬る」とある。また「下総旧事考」には元応三年(一三二一)卯月在銘の碑が弘化三年(一八四六)九月九日に境内から掘出されたことと、「願主二宮住正高庵主 宝徳三年十月日」とある銅鉦の存在が記されているが、板碑は本堂に保管され、鉦は了誉所持の「夜泣きの鉦」ともいわれ、夜泣きする子供の頭の上に掲げて念仏を唱えると夜泣きがやむとの言伝えがある。

本願寺
ほんがんじ

[現在地名]寒河江市本町二丁目

寒河江城跡の南西角にある。日遊山と号し、本尊阿弥陀如来。近世には時宗で天童仏向ぶつこう寺の末寺であったが、昭和一六年(一九四一)浄土宗に改宗。寺伝によれば、承久三年(一二二一)無阿によって天台寺院として創建されたといい、大檀那は大江親広という。宝樹山称名院仏向寺血脈譜写(西沢文書)には「羽州寒河江日遊山本願寺 開山無阿上人 正安元己亥十二月十五日」と記され、開山無阿は正安元年(一二九九)に没している。

本願寺
ほんがんじ

[現在地名]桑名市東鍋屋町

東鍋屋ひがしなべや町南側にあり、東海道に面している。御影山田中たなか坊と号し、西山浄土宗。本尊は善光寺分身の一光三尊如来。秘仏で三三年目に開帳する。もとは天台宗であったと伝えられ、応永八年(一四〇一)に没した良円により中興された。承応―明暦(一六五二―五八)の頃に浄土宗に改宗。宝暦年間(一七五一―六四)に焼失した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「本願寺」の解説

本願寺
ほんがんじ

本派本願寺・西本願寺とも。京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山。竜谷山と号す。1591年(天正19)豊臣秀吉の土地寄進をうけた本願寺11世顕如が現在地に移転。顕如(けんにょ)の没後,長男教如と三男准如(じゅんにょ)の後継争いがおき,93年(文禄2)准如が正式に12世をつぐ。1602年(慶長7)徳川家康から寺地を寄進された教如は東本願寺をおこし,東西に分立。17年(元和3)失火により御影(みえい)堂・阿弥陀堂を焼失するが,36~1760年(寛永13~宝暦10)に再建。1881年(明治14)21世明如のとき,国会に先駆けて集会(宗会)を開設するなど組織を近代化。飛雲閣・書院・北能舞台・唐門,親鸞の「観無量寿経註」などの国宝や,大師堂・阿弥陀堂などの重文がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「本願寺」の解説

本願寺
ほんがんじ

浄土真宗の本山
浄土真宗開祖親鸞の死後,京都東山大谷の地に墓を移し,御影堂を建てたのが始まりで,鎌倉末期より本願寺と称した。15世紀中ごろの8代蓮如 (れんによ) は中興の祖といわれ教団組織を拡大し,16世紀後半11代顕如 (けんによ) のとき,勢力絶大で織田信長に対抗した(石山合戦)。顕如没後,子の教如が弟の准如に跡を譲るが,徳川家康から京都東六条に寺地を寄進され寺を建てた。以後准如側を西本願寺(本願寺派),教如側を東本願寺(大谷派)と呼び,勢力は二分された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本願寺」の意味・わかりやすい解説

本願寺
ほんがんじ

京都市下京区堀川通にある浄土真宗本願寺派の本山 (→西本願寺 ) と同下京区烏丸通にある真宗大谷派の本山 (→東本願寺 ) の2寺院をいう。

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百科事典マイペディア 「本願寺」の意味・わかりやすい解説

本願寺【ほんがんじ】

西本願寺東本願寺

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デジタル大辞泉プラス 「本願寺」の解説

本願寺

京都府京都市下京区にある寺院、西本願寺、また東本願寺の正称。

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世界大百科事典(旧版)内の本願寺の言及

【石山本願寺一揆】より

…1570年(元亀1)から80年(天正8)まで織田信長と戦った一向一揆。石山合戦ともいうが,本願寺の所在地摂津国石山で11年間絶えまなく戦闘があったわけではない。 1568年(永禄11)入洛した信長は70年石山明渡しを要求し,本願寺はこれを拒絶して緊張は激化していた。…

【一家衆】より

…中世,近世における本願寺歴代宗主(しゆうす)の庶子一族および猶子群の総称。本願寺は親鸞墓所の管理から出発した寺で,血脈によって法流を伝持していったため,はじめから強い“家”意識を持ち続けた。…

【一向宗】より

… さらに,親鸞を宗祖とする真宗の門徒もまた,一向専修を宗旨とするため一向衆と呼ばれ,時衆や一向派と混同された。本願寺第3世覚如の《本願寺親鸞上人門弟等愁申状》によると,1302年(乾元1)ころ,一向衆と号して諸国を横行し,放埒な行為を働く輩が禁遏(きんあつ)されたとき,本願寺門徒をそれと混同してはならないといっている。しかしこのころより一向衆という呼称は,むしろ親鸞の門流を指すようになった。…

【大坂城(大阪城)】より

…城の位置する上町台地の北端は,北側に淀川,東に大和川支流と低湿地,西は平地から海に臨み,南方にのみ台地が続くという要害の地である。戦国時代,1532年(天文1)本願寺がここを本拠とし,御堂を中心に寺内町をつくり,濠,土塁を築いて城構えをしたのにはじまる。統一政権樹立を目ざす織田信長は,本願寺に大坂からの退去をせまり,両者の対立は11年にわたる石山合戦に発展した。…

【覚信尼】より

…72年(文永9)東国門弟たちの協力を得て,尼の居住地に親鸞の廟堂を建てる。これを大谷廟堂といい,のち本願寺と称す。77年(建治3)大谷の地を廟堂に寄進して門弟の共有とし,廟堂の守護(留守職)に尼の子孫をあて,本願寺の血統相続の基をひらく。…

【寺内町】より

…寺内町の早い例は,蓮如による越前吉崎御坊で,山上に多屋(田屋,他屋)が立ち並んだが,寺内町としての形態はまだ不十分であった。1479年(文明11),80年の山城の山科本願寺では寺内町が成立し,8町が〈在家又洛中に異ならず〉(《二水記》)という状況であった。ついで大坂の石山本願寺には当初寺内6町のち10町を超える町が発展した。…

【浄土真宗】より

…もちろん一宗を開く意志はなかったから特定の宗派名として使用したわけではないが,浄土真宗の伝灯として三国の七祖名(インドの竜樹(りゆうじゆ),天親(てんじん),中国の曇鸞(どんらん),道綽(どうしやく),善導,日本の源信,法然)をあげ,自己の信ずる宗教として浄土真宗の名を用いた。本願寺第8代蓮如は,浄土真宗を宗派名として意識し強調した。当時,真宗を一向宗と呼ぶものが多かったが,蓮如は1473年(文明5)9月下旬の《御文》の中で,〈夫当宗を一向宗とわが宗よりもまた他宗よりもその名を一向宗といへることさらにこゝろゑがたき次第なり。…

【青蓮院】より

…慈円は法然や親鸞を庇護し,親鸞は慈円について得度,その入滅後に廟所と御影堂が当院寺域内の大谷に営まれた。これが本願寺の起源となり,そののち本願寺法主は明治まで当院で得度することが慣例となった。寺地は,はじめ付近の白川,吉水を転々としたが,1237年(嘉禎3)現在地に移った。…

【仏教】より

…四つにはこれら4宗の寺には,旧仏教や禅宗の大寺のように,創建当初から朝廷や幕府の官寺や祈禱所として七堂伽藍を整備し,寺領寄進をうけて出発した寺はなかった。浄土宗の知恩院,真宗の本願寺や専修(せんじゆ)寺,日蓮宗の久遠(くおん)寺など,いずれも武士や民衆に支えられて草庵から出発した寺院である。五つには,旧仏教や禅宗が宗祖によって中国から将来された仏教だったのに対し,これら4宗の宗祖,法然・親鸞・一遍・日蓮は入唐求法の意志もまたその経験もなく,経典や聖教を模索して教説の体系を形成した歴史をもち,この意味では鎌倉時代の日本がその社会のなかで育て上げた日本仏教ともいうべき宗教だった。…

※「本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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