杉田玄端(読み)すぎたげんたん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「杉田玄端」の意味・わかりやすい解説

杉田玄端
すぎたげんたん
(1818―1889)

幕末・明治初期の蘭方医(らんぽうい)、蘭学者。本姓吉野。幼名は徳太郎、諱(いみな)は拡(かく)。尾張(おわり)藩医幡頭信珉(はずしんみん)の子として江戸に生まれる。1834年(天保5)杉田立卿(りゅうけい)に入門、ついでその養子となり、玄端と称した。1845年(弘化2)四谷塩町に開業。翌1846年本家杉田玄白嗣子(しし)となる。1853年(嘉永6)部屋住みで召し出され七人口を給せられる。1858年(安政5)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)出役教授方手伝、1859年同教授職並(なみ)、1860年(万延1)洋書調所教授職。1862年(文久2)家督を継ぎ、翌1863年外国方横文御用、1865年(慶応1)外国奉行(ぶぎょう)支配翻訳御用頭取。1868年将軍に従って駿河(するが)に移住。沼津沼津兵学校が創設されると陸軍付医師頭取となる。ついで翌1869年(明治2)付属病院である沼津陸軍医学所が設けられると、その頭取となった。1872年これが廃止になったため、翌1873年上京、1875年神田に開業。翌1876年有志と有楽町に共立病院を設立。1880年学士会院会員に推された。訳著には『地学正宗』『民間内外科要法』『化学要論』『解剖生理略論』などがある。

[片桐一男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「杉田玄端」の解説

杉田玄端 すぎた-げんたん

1818-1889 幕末-明治時代の蘭方医,洋学者。
文政元年9月20日生まれ。杉田立卿(りゅうけい)の門人。杉田白元(伯元の子)の養嗣子若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩医となる。のち幕府蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授,外国奉行支配翻訳御用頭取。維新後,沼津陸軍医学所頭取をへて東京に共立病院を創立した。明治22年7月19日死去。72歳。江戸出身。本姓は吉野。名は拡(かく)。字(あざな)は充甫。号は泰岳など。訳書に「地学正宗」「健全学」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android