来迎寺(読み)らいごうじ

精選版 日本国語大辞典 「来迎寺」の意味・読み・例文・類語

らいごう‐じ ライガウ‥【来迎寺】

[一] 滋賀県大津市にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)のこと。
[二] 大阪府松原市丹南にある融通念仏宗の寺。山号は諸仏山。天平一三年(七四一)行基が草創。護法山多聞院と号する。天治元年(一一二四鳥羽天皇の勅願で良忍が復興し阿彌陀寺と称したが、元亨三年(一三二三)法明が中興し現名に改称。丹南藩主高木家の菩提所。
[三] 兵庫県神戸市兵庫区島上町にある浄土宗西山禅林寺派の寺。山号は経島山。平清盛が大輪田泊を修築した時、進んで人柱となった大井民部の子松王を弔って建立したと伝えられる。築島寺。

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デジタル大辞泉 「来迎寺」の意味・読み・例文・類語

らいごう‐じ〔ライガウ‐〕【来迎寺】

聖衆来迎寺しょうじゅらいごうじ

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日本歴史地名大系 「来迎寺」の解説

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]守口市佐太中町七丁目

佐太さた神社の南にある。浄土宗、山号紫雲山、院号聖衆院、本尊天筆てんぴつ如来。寺蔵の古記録(来迎寺文書)などによると、正平二年(一三四七)融通念仏僧実尊の創立で、もと下仁和寺しものにんなじ庄守口の字来迎にあり、法明から伝授された天筆弥陀三尊画像を安置。この像は、貞観元年(八五九)奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡宮で感得したもので、のち山城石清水いわしみず八幡宮に収められ、康永元年(一三四二)八幡の神勅により法明が拝受したものと伝える。「河内名所図会」も同様の本尊来由を記すが、そのなかで法明を摂州深江ふかえ(現東成区)の聖といっている。実尊は後村上天皇の崇敬を受け、常紫衣の綸旨と持仏の釈迦像、本堂に「放光殿」の号を賜った。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]都祁村大字来迎寺小字木原

来迎寺集落の南方、森の中にある。涅槃山蓮城院と号し、多田ただ来迎寺ともいう。西山浄土宗で、本尊は阿弥陀如来。寺伝では行基の開創と伝える。永久二年(一一一四)多田満仲の一族の顕鏡が郷墓となっていた荒野に寺境を定め、貞応二年(一二二三)相河そうご荘の蓮阿が本堂を建立、阿弥陀如来像を安置したのに始まる。多田城(現奈良県室生村)城主多田経実は大檀越として協力し、東山内衆も当寺を菩提所とした。建武三年(一三三六)蓮阿の孫了尊が堂宇を再建、さらに了尊の弟子の西念は応安元年(一三六八)に寺領を南殿みなみとの木原きはら名にたて、諸公事を免除された(応安元年六月二〇日「興福寺六方衆下知状」来迎寺文書)

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]松阪市白粉町

教主山無量寿院と号し、天台真盛宗、本尊阿弥陀三尊。近世は近江坂本の西教さいきよう寺末。真盛に帰依した伊勢国司北畠材親が永正八年(一五一一)常念仏道場真盛堂を細汲ほそくみ(松ヶ島の前身)に建立、同一〇年真盛の高弟盛品を招いて教主山真盛堂来迎寺と称したという。永禄一〇年(一五六七)には北畠氏から次のような禁制(来迎寺文書)が発給された。

<資料は省略されています>

これは北畠具房の意を奉行人山室房兼が奉じたものであるが、袖に花押を据えているのは房兼に先立つ奉行人山室教兼である。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]敦賀市松島二丁目

しようノ川に架かる来迎寺橋の左詰に位置する。山号は岡見山、時宗。もと正法しようぼう(現京都市東山区)末、本尊阿弥陀如来。正法寺の国阿は嘉慶元年(一三八七)笥飯けひ(気比)太神宮(現敦賀市)へ参詣、三日三夜六時の行法の満願の暁に夢告をえて、草舎を建て紫雲院来迎寺と号したという(国阿上人絵伝)。境内南北二町、東西一町半は江戸時代に来迎寺村の村号があり、無高であった。享保郷帳には門前無高四軒(家数二一、うち寺一〇、人数三四、うち出家二一)とあるが、「敦賀志」は天正(一五七三―九二)頃は民家が三〇余軒あり、その後寺院のみになったと記している。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]穴水町大町

大町おおまちの西方山王さんのう川右岸台地上にある。勅定山と号し、高野山真言宗、本尊阿弥陀如来。弘仁年中(八一〇―八二四)実範の開基で、中興大檀那の長谷部(長)信連が菩提寺として再興したと伝える。本堂の木造阿弥陀如来坐像は宇留地うるち村の関寺せきでらより、観音堂の木造薬師如来坐像は大町村薬師堂より移され、不動堂の木造不動明王立像はもと青竜せいりゆう(現珠洲市)の本尊であったと伝え、いずれも平安時代末期の作とされる。建保四年(一二一六)七月信連が入道姿の肖像を境内に安置、以後長氏がこれを御影堂として守護したが、のち長氏が曹洞宗に転じたため、当寺を祈祷所に定めたという(正徳五年「来迎寺縁起」来迎寺文書、「能登志徴」)

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]八戸市朔日町

朔日ついたち町の南に位置する。紫雲山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛保四年(一七四四)の諸寺院寺号山号帳(八戸市立図書館蔵)に「一三拾石御蔵米三拾俵 盛岡大泉寺末寺 紫雲山来迎寺」とある。紫雲山来迎寺縁起(松橋家蔵)によればもと小田こだ村にあったが、永享八年(一四三六)新井田にいだ村に移り、寛永四年(一六二七)新田氏の遠野とおの(現岩手県遠野市)移転により八戸に移ったとされる。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]富山市梅沢町三丁目

光明山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「越中宝鑑」によると、佐伯有若左衛門尉有基の嫡男有頼が、大宝二年(七〇二)出家して慈興と称し、立山を開山して立山別当職の五智山円福えんぷく寺を麓の千坊せんぼうはらに開創したといい、当寺の前身とされる。久寿二年(一一五五)住僧光明坊林海は婦負ねい萩島はぎのしま(現婦中町)に移転し、七堂伽藍を興した。その後上洛した林海は法然を師とし、寺号を光明山来迎寺と改め、浄土宗寺院となった。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]松原市丹南三丁目

融通念仏宗、諸仏山護念院と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、行基が狭山さやま(現南河内郡狭山町)の下池の土木事業を完成した天平三年(七三一)、この事業で死んだ人たちを供養するため毘沙門天を祀ったことに始まる。天治元年(一一二四)融通念仏の良忍が当地を勧進し、毘沙門天を祀ってあった堂を道場とし、さらに天承元年(一一三一)毘沙門山阿弥陀あみだ(院ともいう)を創建したという(大念仏寺誌)

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]甲府市東光寺一丁目

愛宕あたご山の南麓、身延線金手かねんて駅北の線路近くにある。聖衆山摂取院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来三尊。この本尊はもともと鎌倉鶴岡八幡宮の本地仏であるといい、永禄三年(一五六〇)北条氏康からの依頼により武田信玄が相州小田原へ援軍を派遣した時の謝礼として贈られたものという(寺記・甲斐国志)。同七年教安きようあん寺四世上蓮社晃誉貞吟を開山に迎え、武田信賢(来迎寺殿)の菩提所として創建された(「蓮門精舎旧詞」など)

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]富山市梅沢町三丁目

紫雲山光明院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寛正二年(一四六一)深誉栄海(永海)が開創し、当時太田おおた布市ぬのいち村に所在したという(蓮門精舎旧詞)。その後文書・什物を焼失し、南新みなみしん町を経て現在地に転じた。なお寺院明細帳によれば、富山県内には栄海開山とする寺院が都合七ヵ寺あり、黒部市西徳さいとく寺、魚津市西願さいがん寺を中心とする浄土宗寺院である。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]新田町中江田

安養山と号し、もと世良田普門せらだふもん(現尾島町)末の天台宗寺院。本尊阿弥陀如来。かつては現所在地より八〇〇メートル南の字はら(段丘崖突端)にあったが、明治元年(一八六八)に火災で焼失した。旧寺域には現在も墓地が残る。ここには「応安三天大才庚戌六月十五日結衆等敬白」の銘をもつ一八名(うち一六名が法名)の結衆の手になる宝篋印塔や、正中(一三二四―二六)・文和(一三五二―五六)の銘を刻む板碑が残っており、遅くとも鎌倉時代後期には成立していたと思われる。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]三条市井栗 東屋敷

井栗いぐり集落の東寄りにある。宝珠山観照院と号し、真言宗智山派。本尊阿弥陀如来。加茂市下条げじようにあった長福ちようふく寺の末寺であったが、慶長三年(一五九八)長福寺が上杉氏とともに会津へ移った後は、江戸愛宕真福しんぷく寺の末寺となった。かつては村の西側にあったが元禄年間(一六八八―一七〇四)に現在地に移る。開基年代は明らかでないが、慶長二年の井栗村の検地帳(桑原春男氏文書)に寺名がみえる。中興は元禄年間の栄善で、当時無住となっていた正観寺(現在の観音堂の前身)を合寺(「当村中不残代々先祖書」同文書)

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]桜井市大字桜井

初瀬はせ街道の南側に所在。聖衆山無量むりよう院と号し、融通念仏宗。本尊は十一尊天徳如来。寺伝によれば永正一〇年(一五一三)了清が融通念仏宗開祖良忍の旧跡に東光とうこう無量むりよう(現桜井市)を移して来迎寺を開いたという。了清はたに(現同上)の領主桜井五郎正久の子延久であり、その墓と伝える五輪塔がある。現在の建物のほとんどは江戸末期の再建。来迎印の阿弥陀如来立像(平安時代)を中央に観音・勢至など多くの菩薩を安置する。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]篠山市立町 下立町

尊法そんぽう寺の西手にある。浄土宗。山号は清涼山で、本尊は阿弥陀如来。弘治年間(一五五五―五八)中西政親が波々伯部ほほかべ村に不断ふだん寺を開創したのが始まりで、のち八上やかみ城下に移して波多野秀治の帰依を受け、調誉を開基として阿弥陀寺を称したという。慶長一五年(一六一〇)当地に移建、篠山城下の鬼門除けとした(多紀郡地誌)。慶長年間信誉の代に京都知恩院から来迎寺の寺号を与えられた。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]十日町市 川原町

市街地東部、川左岸にある。時宗、放光山引接院と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝では正応元年(一二八八)の創建といい、一遍を開祖とする。初め中条なかじよう村の団子島だんごじまにあったが、数次の災害で転々として下条げじよう村のはらに移り、さらに現在地に移ったという(中魚沼郡誌)。延徳三年(一四九一)五月二六日の長尾能景遵行状(来迎寺文書)によれば、守護上杉房定は松龍軒を「波多岐庄美佐嶋郷内、来迎寺」の住持に任命している。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]黒石市京町 寺町

てら町の北側にあり、紫雲山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。正保元年(一六四四)雪伝が開山。開基は山形やまがた村の山谷久左衛門という(烏城志)。当初磐城国磐前郡専称せんしよう(現福島県いわき市)の末寺であったが、享保六年(一七二一)八世卓玄の時から専称寺の末山弘前誓願せいがん寺の末寺となった。同年に鋳造された梵鐘の銘に「浄土宗鎮西名越派余裔」とあるように名越派に属した。

来迎寺
らいこうじ

千葉道場北どうじようきた町にあった時宗寺院。智東山聖聚院と号し、本尊は阿弥陀如来。建治二年(一二七六)一遍を開山として千葉貞胤が創建したと伝える。天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入国に伴い尊照(のちの京都知恩院二九世)が中興し、浄土宗に改宗。同一九年一一月寺領として葛飾かつしか本郷ほんごう内五〇石を寄進されている(下総旧事)

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]上越市寺町二丁目

善導ぜんどう寺の北方、浄興じようこう寺の東にある。浄土宗、紫雲山と号し本尊阿弥陀如来。開基は善慧坊証空。承久三年(一二二一)証空が奥州下向の途次、府中国分寺の西山に一宇を建立したのに始まる。本堂には大和当麻たいま寺の曼陀羅を模して安置、院号・寺号も当麻寺の別院の名により紫雲山引接院来迎寺と名付けたという。当寺住職は開山より一五世空顕の時まで浄土宗西山派(本山栗生光明寺)の僧が相続したが、一六世寂誉厳翁は糸魚川いといがわの善導寺で剃髪し、この時鎮西派に改め京都東山知恩院の末となった。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]飯南町深野 寺浦

白猪しらい山への登山道を登った小高い丘陵部にあり、眼下に櫛田くしだ川を見下ろす。山号は弧雲山、浄土宗。本尊阿弥陀仏。寺伝によれば治承三年(一一七九)俊乗坊重源により営まれ、永禄一二年(一五六九)織田信長の南伊勢侵攻の際兵火にあい焼失、元和元年(一六一五)霊厳により再建が図られ、その弟子霊存が再興した。当寺では重源を根本開山、霊存を中興開山とする。天明年間(一七八一―八九)にも焼失し、現在の本堂は文政一三年(一八三〇)建立のものとされる。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]堺市綾之町西二丁

内川うちかわ橋の東に位置し、融通念仏宗、山号慈光山、本尊阿弥陀三尊。元和二年(一六一六)観誉智讃が創建(「来迎寺縁起」寺蔵)。延宝五年(一六七七)の大念仏寺四十五代記録并末寺帳(大念仏寺蔵)は元和元年の創建とする。また融通念仏中興の祖法明が、元亨三年(一三二三)播磨加古かこ(現兵庫県加古川市)の教信の遺跡を訪ねた帰路、暴風で堺浦に漂着したとき設けたという説もある(融通念仏三祖略伝)

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]下諏訪町横町

引接山衆聖院来迎寺と称し、浄土宗で京都知恩院の末、本尊は阿弥陀三尊で諏訪大社下社秋宮の北西、湯田坂ゆだざか上にある。

元禄九年(一六九六)来迎寺住持緑挙の諏訪藩に書き上げた浄土門中寺院由緒書には、「当寺草創、天文十辛丑年二月十五日、開山遵蓮社願誉栄海上人」とあり、寺伝によれば、開基は諏訪右衛門尉で、諏訪五十騎にも名を連ね、尾口郷(現岡谷市小口)を本領としていた。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]奈良市東九条町

東九条とうくじよう町の東部、小字加茂坂かもさかにある。紫雲山と号し、西山浄土宗。本尊の阿弥陀如来坐像は半丈六(平安後期)で、大安だいあん(現奈良市)から移したといわれる。寺伝によれば奈良時代の創建という。延宝六年(一六七八)に本堂・庫裏を焼失したが、翌年再興された(樫尾家文書)

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]鎌倉市西御門一丁目

鶴岡八幡宮北東奥の谷戸の東、小笠原谷おがさわらがやつにある。時宗、満光山と号する。開山一遍智真、本尊阿弥陀如来。もと藤沢の清浄光寺しようじようこうじ末。寺史は未詳だが、来迎寺二世観阿了然代のものと思われる「鎌倉志」所載の来迎寺勧進状には「有小笠原谷、谷中構簫寺之基趾、山下排草舎之道場、奉安弥陀仏、号曰来迎寺、草創仍旧」とある。境内には本堂・庫裏があり、本尊のほか明治の神仏分離の際に源頼朝の法華堂から移された木造如意輪観音坐像・木造地蔵菩薩坐像・木造跋陀婆羅尊者像が安置されている。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]今治市山方町一丁目

清浄山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によると登誉孤雲の開山で、国分こくぶ山にあり天台宗であった。承元元年(一二〇七)源空が讃岐に流された折、当寺にも滞在したため浄土宗に転じたという。福島正則が国分城に入った時、堂宇を整備して菩提寺とし、寺領一〇〇石を寄進したという。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]熊取町久保

久保の和田くぼのわだ集落北にあり、曹洞宗、山号円覚山、本尊阿弥陀如来。開基・草創は不明。寺伝によるともと天台宗に属し、その後真言宗に転じ、元禄二年(一六八九)曹洞宗に転宗したという。本堂は鎌倉時代の建築様式をもち国指定重要文化財。もと雨山あめやま城内にあった竜王殿を移築したもので、内部は煤気が多く当初は護摩堂であったと推察される。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]鎌倉市材木座二丁目

五所ごしよ神社の北隣、字能蔵寺のうぞうじにある。時宗。随我山と号する。本尊阿弥陀三尊。開山音阿、中興は覚阿岸樹(寛文五年没)。もと藤沢清浄光しようじようこう寺末。寺伝では、建久五年(一一九四)源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため真言宗の能蔵寺を建立し、その後音阿が時宗に改め、寺号も来迎寺としたという。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]秋田市保戸野鉄砲町

声体しようたい寺と蓮住れんじゆう寺の間にある。浄土宗、引接山と号し、本尊阿弥陀如来。元禄五年(一六九二)写の秋田六郡寺院調書(県立秋田図書館蔵)によれば、慶長一七年(一六一二)建立、開基は正蓮社良誉含竜という。

来迎寺
らいごうじ

[現在地名]松山市御幸一丁目

御幸寺みきじ山の西南麓、松田まつだ池に面する。西宮山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、河野氏により道後どうごに創建され、天台宗であった。

来迎寺
らいこうじ

[現在地名]知立市来迎寺町 古城

東海道の北に位置し、小字名として残る御堂道みどうみちは往時の来迎寺への道であった。紫雲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊如意輪観世音菩薩。承平元年(九三一)山城国宇治平等びようどう院の来迎院法印が一宇を建てたのが始まりという。

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デジタル大辞泉プラス 「来迎寺」の解説

来迎寺〔奈良県〕

奈良県奈良市来迎寺町にある西山浄土宗の寺院。山号は涅槃山、院号は蓮城院。本尊は阿弥陀如来。行基による開創と伝わる。宝塔は国の重要文化財に指定。西山来迎寺、多田(ただ)来迎寺ともする。

来迎寺〔三重県〕

三重県松阪市にある天台真盛宗の寺院。永正年間(1504年~1521年)創建と伝わる。江戸時代中期に建てられた本殿は国の重要文化財に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「来迎寺」の解説

来迎寺

(長野県諏訪郡下諏訪町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「来迎寺」の意味・わかりやすい解説

来迎寺
らいこうじ

聖衆来迎寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「来迎寺」の意味・わかりやすい解説

来迎寺
らいごうじ

聖衆来迎寺」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の来迎寺の言及

【聖衆来迎寺】より

…滋賀県大津市下坂本にある天台宗の寺。紫雲山と号し,来迎寺ともいう。寺伝によれば,790年(延暦9)最澄が地蔵を安置して地蔵教院と号し,1001年(長保3)源信が当院で弥陀聖衆の来迎を感見し,みずから来迎のようすをかき,阿弥陀仏を彫って安置したという。…

※「来迎寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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