東ゴート王国(読み)ひがしゴートおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「東ゴート王国」の意味・わかりやすい解説

東ゴート王国 (ひがしゴートおうこく)

5世紀から6世紀に東ゴート族イタリアを中心に建設したゲルマン部族国家。ドイツ語ではReich der Ostgotenと称する。スカンジナビアを発祥地とされるゴート人は,東ゲルマン人の一派で,3世紀に東西二つの集団に分かれた。バルカン半島や小アジアなどの,自らの領域内での東ゴート族の略奪・侵入行動に悩んだビザンティン皇帝ゼノンは,テオドリック大王の率いるこの部族に,オドアケル支配下のイタリアへの遠征を勧めた。テオドリック大王軍隊は489年から5年の歳月をかけて,493年にイタリアの平定に成功した。これによってラベンナを中心とする東ゴート王国が成立する。

 他のゲルマン部族国家と比べて,とりわけ東ゴート王国に特徴的なのは,ゴート人とローマ人をそれぞれ別個の支配体系のもとに置く分離統治の原則,あるいは二元的支配の原理である。フランク王国や西ゴート王国などでもこうした傾向は見られないわけではなかったが,東ゴート王国ではこれを徹底して実施した。ゴート人の統治は,民政・軍事両方の権限をもつゴート人の伯comesが中心となって行い,ローマ人は従来のラベンナ宮廷役人が掌握した。この2系統の支配体系は宮廷と王の人格のもとで1本に統合される。多くのローマ人が有能な役人として宮廷で勤務したが,なかでもカッシオドルスは著名である。ローマ人には武器の携帯が禁止され,ゴート人のみが軍事力を独占した。また二元的原理は定住のありようにまで及ぶ。ゴート人が定住した都市ではローマ人街区と新来のゴート人街区が区別される傾向があった。これはゴート人とローマ人の宗教の違いとも関連しており,前者アリウス派,後者カトリックで,少数派であったゴート人がアリウス派教会を核として定住したという事情も関係している。

 テオドリック大王の対外政策は,とりわけ部族国家間の融和を図るための婚姻政策によって知られる。テオドリック自身,フランク王クロービスの妹と結婚し,彼の2人の娘のうちの1人はブルグント王ジギスムント,残る1人は西ゴート王アラリック2世のもとに嫁がせ,妹はバンダル王トラサムントと結婚させた。こうしてつくりあげた姻戚関係を基礎に,ゲルマン諸国家のいわば後見人として君臨する。大王は526年に他界した。後継者は幼王アタラリックであったが,実際には大王の娘アマラスンタAmalasuntha(?-535)が摂政として統治した。

 一方この時期ビザンティン帝国が旧ローマ領土奪回の動きを見せはじめる。534年アタラリックが王位継承者を残さないままに早世し,アマラスンタのいとこテオダハドが王位に就いたが,536年に暗殺される。その結果,政権を握ったのがゴート人の将軍ウィティギスVitigisであった。だが名将ベリサリオスの率いるビザンティン軍は南部から上陸し,この年の暮れにローマに入り,イタリアを帝国に再び編入した。これによって東ゴート王国は解体する。だがその後もゴート人は執拗にビザンティン軍に抵抗した。ウィティギスに代わって,ヒルデバト,トティラ,テヤの3人の将がゴート人の王として,十数年間にわたって相次いで抵抗戦を組織した。552年ようやく抵抗は終息した。降伏したゴート人は東方に送還されるか,あるいはラベンナで奴隷として使役された。
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旺文社世界史事典 三訂版 「東ゴート王国」の解説

東ゴート王国
ひがしゴートおうこく
Ostgoten (ドイツ)

493〜555
ゲルマン人の一派である東ゴート族がイタリアに建てた国
テオドリックに率いられてイタリアに侵入し,オドアケルを倒して建国。首都はラヴェンナ。ゴート人とローマ人を別個の支配体系下に置く分離統治を行い,ボエティウスやカシオドルスなどローマ人の文官を重用した。一時ゲルマン諸国家に覇を唱えたが,東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの将軍ベリサリオスとナルセスにより滅ぼされた。

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