東亜同文会(読み)とうあどうぶんかい

改訂新版 世界大百科事典 「東亜同文会」の意味・わかりやすい解説

東亜同文会 (とうあどうぶんかい)

1898年7月に東亜会同文会が合流して成立,1900年には亜細亜協会を吸収,初代会長近衛篤麿(貴族院議長,公爵)とし,会の中堅には荒尾精の日清貿易研究所(1890年,上海に設立)の門下が多い。会の三大事業は第1が《東亜時論》誌(1898-99年の1年間),《東亜同文会報告》誌(1899-1910年まで132号),《支那》誌(1911-44年,36巻432号)とつづく時論誌の刊行,第2が東亜同文書院生による実地踏査記録をまとめた《支那省別全誌》(1920年に全18巻本)の編集・刊行,第3が東亜同文書院という学校(上海)の経営(1901年第1期生入学,39年大学昇格,45年廃校)である。第1,第2の刊行物は,第3の学校の学生・卒業生(46年間で約5000人)が多く執筆するという関係にあった。

 前身である東亜会と同文会は,合併1年前の1897年に,会員10名ほどの時事研究会として発足,両者の系譜はいささか異なるものの,実質的な組織者は岸田吟香,荒尾精の門下生で,合併時には東亜会から平岡浩太郎,犬養毅ら,同文会からは宗方小太郎,大内暢三らが出席,35歳の青年華族近衛篤麿を初代会長にした。近衛は日清戦争の賠償金(終戦時の明治政府歳入の約4年分に相当)を小学校建設に使うという建議案(〈清国償金ノ一部ヲ小学校基本金ト為スノ建議案〉,1896-97年の第9議会)を就任早々可決させた貴族院議長であり,東亜同文会は彼を会長にすることによって,外務省の機密費を引き出すことができた。

 同会の創立期の主張は〈支那保全〉であった。これは列強による中国分割に反対するもので,両江総督劉坤一と結び,揚子江中・下流域の権益(この地域の内河航路は同会の白岩竜平が日清汽船を創設した)を重視し,対外的には日英同盟条約は1902年)の方向にそったもので,軍部を中心とする対ロシア北進論とは異なる。2代会長以下は青木周蔵,鍋島直大,牧野伸顕とつづく。1913年,外務省に対支文化事業部がおかれるとこの管轄下におかれ,政府機関の色彩を強め,46年に解散が決定された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東亜同文会」の意味・わかりやすい解説

東亜同文会
とうあどうぶんかい

1898年(明治31)11月に「日清(にっしん)提携」「支那(しな)保全」を標榜して設立された対外硬(たいがいこう)組織。対外硬とは外部や外国に対して自分の方の主張を通そうとするやり方を意味し、同年のロシアの旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)租借をはじめとする列強による中国租借の進行、康有為(こうゆうい)派の変法運動などに刺激されて同年春組織された東亜会と同年6月設立された同文会が合併したものである。東亜会は犬養毅(いぬかいつよし)、平岡浩太郎(こうたろう)ら進歩党系政治家、新聞『日本』、政教社グループ、東京専門学校・帝国大学の学生などからなる集団で、孫文(そんぶん)派との提携を志向したのに対し、同文会は乙未(いつび)会系の大陸浪人と近衛篤麿(このえあつまろ)グループからなる集団で、張之洞(ちょうしどう)、劉坤一(りゅうこんいつ)ら南方総督派との提携をねらって活動した。1900年(明治33)5月には、政府の補助金を基に中国南京(ナンキン)に南京同文書院を設立(義和団(ぎわだん)事件のため3か月で閉鎖、上海(シャンハイ)に移った。翌年より東亜同文書院と称す)、また02年には、中国人留学生受け入れのため東京にも同文書院を設立した。日露戦争後は教育事業と中国関係書籍雑誌の出版を主たる事業とするようになった。46年(昭和21)解散。

[酒田正敏]

『滬友会編・刊『東亜同文書院大学史』(1955)』

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百科事典マイペディア 「東亜同文会」の意味・わかりやすい解説

東亜同文会【とうあどうぶんかい】

1898年7月,近衛篤麿が組織した同文会と,東亜会が合併して成立した国家主義団体。東亜の大同団結を図り,義和団事件に際しては国策推進に協力。1900年亜細亜(アジア)協会を吸収し,同年9月国民同盟会結成の中心となった。→東亜同文書院
→関連項目岸田吟香笹森儀助

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東亜同文会」の意味・わかりやすい解説

東亜同文会
とうあどうぶんかい

東亜会と同文会が合同してできた近衛篤麿を会長とする文化団体。近衛は日清戦争後の東洋の将来を憂慮し,大アジア主義の見地から同文同種諸邦親善を説き『日清同盟論』を刊行した。また,1898年6月には同文会を組織し,上海に同文会館,同文学堂を設けて青年教育にあたっていたが,同年 11月,当時同様の活動を行なっていた東亜会と合同,東亜同文会となった。 1900年南京同文書院を開設,翌 01年これを上海に移して東亜同文書院と改称し,02年には東京神田に東京同文書院を設けて,日清両国の留学生交換や日清両国の文化交流を目指すなど多彩な活動を行なった。その後,23年外務省の外郭団体となり,第2次世界大戦終戦とともに解散したが,霞山倶楽部,霞山会と名称を変えて現在に引継がれている。

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世界大百科事典(旧版)内の東亜同文会の言及

【アジア】より

…明治期には,アジアではなく〈亜細亜〉が主流だが,その意味内容を見ると,亜細亜はたんなる地理的範囲を示す用語ではなく,きわめて政治的な意味をこめたものとして用いられた。振亜社(1877年,大久保利通らによって結成,80年に興亜会と改名,同人には中村正直,曾根俊虎,宮崎誠一郎など),亜細亜協会(1883年結成,同人に長岡護美,鄭永寧ら),東亜同文会(1898年,東亜会と同文会を合併して近衛篤麿を会長に結成)などがその例である。 欧米によるアジア進出に対抗した〈興亜〉の流れと,日本の欧米化を願う〈脱亜〉の流れは,対立する二つの思想潮流であったが,両者とも〈亜細亜〉という漢字表記(その省略形も含む)を用い,これはやがて〈東亜〉〈大東亜〉という用語として継承された。…

【近衛篤麿】より

…95年学習院院長,96年貴族院議長となる。日清戦争以後は,ロシアの満州進出を日本の脅威と考え,東亜同文会の会長として〈日清同盟〉論を唱え,義和団事件に際してのロシアの満州占領に抗議する国民同盟会の実質上の会長となった。一方で,大津事件(1891),選挙干渉問題(1892)で第1次松方正義内閣を糾弾するなど,藩閥政府には批判的で,政党とくに進歩党,憲政本党に好意的立場をとった。…

【東亜同文書院】より

東亜同文会が上海に設立した学校。1900年5月中国の民俗・言語・文化に親しみ,日中両国の親善に参画する人材を育成する目的で設立した南京同文書院が前身である。…

※「東亜同文会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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