東南アジアの映画(読み)とうなんあじあのえいが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東南アジアの映画」の意味・わかりやすい解説

東南アジアの映画
とうなんあじあのえいが

概観

東南アジア諸国のうち、国産の映画製作が産業として成り立っているのはタイ、フィリピンインドネシアマレーシア、ベトナムであり、かつて盛んに映画をつくっていたカンボジアミャンマー、近年になって興隆の兆しがみえるシンガポールがこれに続く。ラオスブルネイは映画産業を有していない。

[石坂健治]

映画史の初期から太平洋戦争終結まで

フランスのリュミエール兄弟シネマトグラフを発明した19世紀末、タイを除く東南アジア諸国は植民地であり、映画との最初の接点は、リュミエール社から派遣されたカメラマンたちが撮る、遠い異国の風物の「被写体」としてであった。宗主国である欧米人による上映会も早くから行われ、1897年にはマニラバンコクでリュミエール社とゴーモン社の短編作品の上映会が実施され、主たる観客は宗主国の支配層と現地の王侯貴族であった。やがて映画館での興行が始まり、19世紀末から20世紀初頭にかけて、マニラではスイス人やスペイン人、バンコクでは日本人による映画館経営が始まった。

 製作の面では、初期の映画撮影は欧米人や現地の王侯貴族の手になるもので、フィリピンでは1898年にスペイン人が、タイでは1900年に国王の弟が、インドネシアでは1910年代にオランダ人が、それぞれ現地における初の映画撮影を行っている。やがて一般の現地人による映画製作が始まり、フィリピンではホセ・ネポムセノJoséNepomuceno(1892―1959)監督の『Country Maiden(農村の乙女)』(1919)、タイではクルンテープ映画社製作、クン・アヌラックラッタカーンKun Anurakrathakarn監督の『Double Luck(二重の幸運)』(1927)が、初の国産映画として発表された。またマレー半島ではインド系のプロダクションが1933年に初の現地映画を作り、インドネシアでは華僑(かきょう)のウォン三兄弟Wong Brothers(ネルソン・ウォンNelson Wong(1895―1945)、ジョシュア・ウォンJoshua Wong(1906―1981)、オトニール・ウォンOthniel Wong(1908―?))が1928年より映画製作を開始した。1930年代に入ると世界的なトーキー化の波が東南アジアにも押し寄せ、フィリピンのサルスエラ(スペイン起源)、マレーのバンサワン(インド起源)といった音楽劇の演目が映画化されて人気を博した。

 1941年(昭和16)に太平洋戦争が始まると、日本が東南アジア各地を占領し、とくにフィリピンとインドネシアでは日本映画社(1941年設立)によるプロパガンダ映画の製作が行われ、前者では阿部豊がヘラルド・デ・レオンGerardo de León(1913―1981)と共同監督した『あの旗を撃て』(1944)など、後者では宣撫映画と呼ばれる文化映画が多数作られた。

[石坂健治]

タイ

1950年~1960年代には16ミリの無声映画が多数つくられ、弁士付きで上映された。1970年代に入ると35ミリ映画が主流となり、チャトリ・チャラーム・ユーコン(プリンス・チャトリ)Chatree Chalerm Yukol(Prince Chatree)(1942― )の『Taxi Driver(タクシー・ドライバー)』(1977)や、マノップ・ウドムデートManop Udomdej(1955― )の『社会の周辺で』(1981)などの社会派映画が登場した。1980年代以降は『アナザー・ワールド』(1990)、『ムアンリット』(1994)のチャード・ソンスィーCherd Songsri(1931―2006)、『少年義勇兵』(2000)のユッタナー・ムクダーサニットEuthana Mukdasanit (1952― )らの監督が国際的にも活躍した。娯楽の多様化により、映画界は1990年代なかばまで低迷を続けたが、シネマコンプレックス(複合映画館)の登場や、ノンシー・ニミブットNonzee Nimibutr(1962― )の『ナンナーク』(1999)の大ヒットによって人気が回復。若手監督のつくる国産映画に観客が集まるようになった。ヨンユット・トンコントーンYongyoot Thongkongtoon(1967― )の『アタック・ナンバーハーフ』(2000)、ウィシット・サーサナティアンWisit Sasanatieng(1963― )の『快盗ブラック★タイガー』(2001)、浅野忠信(あさのたたのぶ)(1973― )を主役に起用したペンエーグ・ラッタナルアーンPen-Ek Ratanaruang(1962― )の『地球で最後のふたり』(2003)など、いずれもCM界出身の監督によるヒット作が登場する一方、2010年のカンヌ国際映画祭で東南アジア人初の最高賞(パルム・ドール)をアピチャッポン・ウィーラセタクンApichatpong Weerasethakul(1970― )の『ブンミおじさんの森』(2010)が受賞するなど、自主製作映画出身の監督の活躍も目だっている。

[石坂健治]

フィリピン

1950年代にはアメリカ流の撮影所システムを踏襲したサンパギータ、LVN、プレミアの三大メジャー映画会社を中心に第1期黄金時代を迎え、監督では『Genghis Khan(チンギス・ハーン)』(1952)のマヌエル・コンデManuel Conde(1915―1985)、『ノリ・メ・タンヘレ』(1961)のヘラルド・デ・レオンらが活躍したが、1960年代の経済不況でこの黄金時代は終わった。1970年代初頭からマルコス独裁政権が終焉(しゅうえん)する1980年代なかばまでは、『マニラ 光る爪』(1975)のリノ・ブロッカLino Brocka(1939―1991)、『マニラ・バイ・ナイト』(1980)のイシュマエル・ベルナールIshmael Bernal(1938―1996)、『シスター・ステラ・L』(1984)のマイク・デ・レオンMike De Leon(1947― )らのプロテスト精神旺盛(おうせい)な監督に加え、『悪夢の香り』(1977)のキドラット・タヒミックKidlat Tahimik(1942― )ら自主製作映画作家も台頭し、第2期黄金時代となった。1990年代以降は、『ホセ・リサール』(1998)のマリルー・ディアス=アバヤMarilou Diaz-Abaya(1955―2012)、『マニラ・スカイ』(2009)のレイモンド・レッドRaymond Red(1965― )、『囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件』(2012)のブリランテ・メンドーサBrillante Mendoza(1960― )、『北(ノルテ)―歴史の終わり』(2013)のラヴ・ディアスLav Diaz(1958― )らが活躍している。毎年7月にマニラで開催されるシネマラヤ映画祭は、若い映画作家の登竜門として人気を博している。

[石坂健治]

インドネシア

対オランダ独立戦争後1949年に独立したインドネシアでは、ウスマル・イスマイルUsmar Ismail(1921―1971)がインドネシア初の民族系映画会社プルフィニを設立し、『血と祈り』(1950)を発表した。1950年~1960年代にかけては、全盛期のマレー映画やフィリピン映画に押されて国産映画は苦戦した。1970年~1980年代には、『ママッド氏』(1973)、『無神論者』(1974)のシュマン・ジャヤSjuman Djaya(1933―1985)、『蚊帳の中』(1982)のトゥグ・カルヤTeguh Karya(1937―2001)、『青空がぼくの家』(1989)のスラメット・ラハルジョ・ジャロットSlamet Rahardjo Djarot(1949― )らの監督や、『チュッ・ニャ・ディン』(1988)に主演した女優クリスティン・ハキムChristine Hakim(1957― )らが活躍した。1990年代は政治的混乱の影響で映画界は停滞したが、1997年にスハルト政権が終焉すると新しい動きがはじまった。新世代のリーダー格のガリン・ヌグロホGarin Nugroho(1961― )は『オペラ・ジャワ』(2006)など旺盛な創作活動を続け、より若い世代の作家たちも台頭している。NHKとの共同製作になる、前衛的なナン・トリフェニ・アフナスNan Triveni Achnas(1963― )の『囁(ささや)く砂』(2001)、高校生の友情と恋愛を描いたルディ・スジャルウォRudy Soedjarwo(1971― )の『ビューティフル・デイズ』(2001)、孤島の小学生たちと女性教師の交流を描いたリリ・リザRiri Riza(1070― )の『虹の兵士たち』(2008)、シュールな作風のエドウィンEdwin(1978― )の『動物園からのポストカード』(2012)など、注目すべき作家・作品が登場している。

[石坂健治]

マレーシア

イギリス統治下の1950年代には、シンガポールを拠点にした華僑系のショウ・ブラザーズとキャセイの二大メジャー映画会社が、東南アジア全域に配給網を広げて覇を競い、インドネシアなどにも配給した。とりわけショウ・ブラザーズに属したP・ラムリーP. Ramlee(1929―1973)は『アリババ』(1961)などで監督、男優、作曲家、歌手をこなす大スターとして一世を風靡(ふうび)した。1963年にマレーシア連邦が発足したが(1965年にシンガポールが分離独立)、映画産業は下降線をたどり、1973年にラムリーが死去するとさらに斜陽化した。その後は停滞が続いたが、21世紀に入りマレー系に加えて中国系、インド系などの監督が台頭した。マレー系のアミール・ムハマドAmir Muhammad(1972― )は『ビッグ・ドリアン』(2003)など、多民族国家マレーシアの現実をみつめるドキュメンタリーを発表。ジェームス・リーJames Lee(1973― )の『美しい洗濯機』(2004)やホー・ユーハンHo Yuhang(1971― )の『レイン・ドッグ』(2006)といった中国系監督の作品や、ゴム農園で働く家族を描いたインド系のディーパク・クマーラン・メーナンDeepak Kumaran Menon(1979― )の『砂利の道』(2005)などが注目された。こうした新しい動向の中心は、日本人を祖母にもつマレー系女性監督ヤスミン・アフマドYasmin Ahmad(1958― )で、中国系の青年とマレー系の女子学生の恋を描いた『細い目』(2005)は東京国際映画祭で最優秀アジア映画賞を受賞した。

[石坂健治]

シンガポール

シンガポールでは1990年代に政府主導の映画製作助成が始まり、徐々に注目作が登場している。3世代の男女の恋愛をオムニバス形式で描いたエリック・クーErik Khoo(1965― )の『一緒にいて』(2005)や、同じクーが日本の劇画家・辰巳ヨシヒロ(1935―2015)の半生をアニメ化した『TATSUMI』(2011)、NHKとの共同製作で、中国系の少年と韓国人男性の交流を描いたロイストン・タンRoyston Tan(1976― )の『4:30』(2005)などが国際的に紹介されている。

[石坂健治]

ベトナム

抗仏戦争を経た1958年にハノイに撮影所が設立され、旧ソ連をはじめ社会主義諸国との連携を強め、他方、1954年に映画製作が開始された南のサイゴン(現、ホーチミン)では、アメリカ映画の影響を受けた娯楽映画がつくられ、アメリカ映画のロケも行われた。1975年の南北統一後は、首都ハノイを中心に国営の製作配給システムを進めたが、1980年代のドイモイ(刷新)政策によって自由化の波が押し寄せ、独立採算制への移行とともに映画界は経済的な困難に陥った。『ニャム』(1995)のダン・ニャット・ミンDang Nhat Minh(1938― )、『サイゴンからの旅人』(1996)のレ・ホアンLê Hoàng(1956― )らは、外国との合作や外国配給に活路をみいだした。なお、『ノルウェイの森』(2010)のトラン・アン・ユンTran Anh Hung(1962― )のように国外で活躍する監督もいる。

[石坂健治]

その他

カンボジアでは1960年代から1970年代前半まで、ティ・リム・クンTea Lim Koun(1934― )の『怪奇ヘビ男』(1970)など多くのホラー映画がつくられ、国外にも配給されるほど人気を博したが、ポルポト政権によってフィルムは焼却され、ほとんどの映画人が粛清された。フランスで育ったリティー・パニュRithy Panh(1964―)は、『飼育』(2011)、『The Missing Picture(失われた写真)』(2013)など、ポルポト時代の惨禍を検証するドキュメンタリーや劇映画を発表して国際的に評価されている。パニュは古いカンボジア映画の発掘・修復にも力を注いでいる。

 ミャンマーは戦前に映画製作が盛んで、日本との合作『にっぽんむすめ』(1935)などが知られているが、戦後の映画史は不明な点が多い。

[石坂健治]

『佐藤忠男著『アジア映画』(1993・第三文明社)』『四方田犬彦編『思想読本 知の攻略 アジア映画』(2003・作品社)』『四方田犬彦著『アジア映画の大衆的想像力』(2003・青土社)』『佐藤忠男著『映画から見えてくるアジア』(2005・洋泉社)』『四方田犬彦著『怪奇映画天国アジア』(2009・白水社)』『佐藤忠男著『私はなぜアジアの映画を見つづけるのか』(2009・平凡社)』『石坂健治他監修、夏目深雪他編『アジア映画の森――新世紀の映画地図』(2012・作品社)』『地域研究コンソーシアム『地域研究』編集委員会編『地域研究 13巻2号』総特集「混成アジア映画の海――時代と世界を映す鏡」(2013・京都大学地域研究統合情報センター、昭和堂発売)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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