東南院(読み)とうなんいん

日本歴史地名大系 「東南院」の解説

東南院
とうなんいん

[現在地名]高野町高野山

現在金剛三昧こんごうさんまい院が名跡をもち、同院内に仮房舎がある。準別格本山。文化一〇年(一八一三)高野山細見絵図では壇上伽藍とう塔の東、本中院ほんちゆういん谷にあり、学侶方の一院であった。本尊千手観音。「諸院家析負輯」所収の当院過去帳には開山は智泉大徳(天長二年没)、信堅院号帳には「密厳房阿闍梨聖源建立也三昧堂ヲ昔ハ東南院ト名」とあり、文明五年(一四七三)の諸院家帳にも同様にあるが、「続風土記」は「若し智泉大徳を開基とせは聖源は中興なるへし」と記している。

東南院
とうなんいん

[現在地名]吉野町大字吉野山

蔵王ざおう堂南方約二〇〇メートルの右側にある。金峯山修験本宗の塔頭。古来金峯山きんぶせん寺の一院として寺僧派に属した。本尊は役行者で、両脇蔵王権現と不動明王を祀る。寺伝によると開基は役行者で、代々多くの名僧を出した。とくに中興の日円は求法のため入唐し、帰朝の時持帰った経巻や法具を有縁の社寺に寄付したと伝えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「東南院」の意味・わかりやすい解説

東南院 (とうなんいん)

奈良市雑司町東大寺内にある,もと三論・真言兼学の院家(いんげ)。明治以降東大寺本坊となり,華厳宗となる。875年(貞観17)聖宝(しようぼう)の創建にかかり,904年(延喜4)に東大寺別当道義は佐伯宿禰氏の香積(こうしやく)寺(佐伯院)を移建して聖宝に寄せ,三論の復興を計った。南大門の東方に位置したため東南院と称したという。1071年(延久3)の宣旨により,院主は三論宗の長者を兼ね,元興(がんごう)寺,大安寺などの三論宗を吸収して三論宗の本所となり,華厳宗の尊勝院とともに公卿・法親王が入寺し,東大寺はもちろん南都仏教界に重きをなした。1088年(寛治2)白河上皇が高野山参詣の途次に宿泊して以降,しばしば天皇,上皇などの御所となり,南都御所とも称せられた。1567年(永禄10)の兵火に類焼して以後,一時荒廃したため,1702年(元禄15)公慶上人が再興し,1763年(宝暦13)に再度宸殿などを修復した。東南院文書は1872年に献納正倉院に収蔵されている。
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世界大百科事典(旧版)内の東南院の言及

【東大寺】より

… 平安時代になると855年(斉衡2)5月の地震で大仏の頭部が墜落し,861年(貞観3)3月に修理完成して開眼供養が行われ,917年(延喜17)12月には僧坊,講堂が焼失し,講堂は935年(承平5)5月に再建,934年10月には西塔および回廊が雷火で焼けた。一方,821年(弘仁12)2月には灌頂道場として空海が真言院を創設したのをはじめ,聖宝による三論・真言兼学の東南院,光智による華厳・真言兼学の尊勝院や念仏院,良弁堂,知足院なども創建された。1180年(治承4)12月平重衡の兵火で奈良時代以降の諸堂,坊舎などはほとんど類焼し,重源(ちようげん),栄西,行勇など造東大寺大勧進上人によって復興が続けられた。…

※「東南院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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