東村山市(読み)ヒガシムラヤマシ

デジタル大辞泉 「東村山市」の意味・読み・例文・類語

ひがしむらやま‐し【東村山市】

東村山

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「東村山市」の解説

東村山市
ひがしむらやまし

面積:一七・一七平方キロ

都の北部中央に位置し、都心から約二七キロ、北は埼玉県所沢市、東から南東にかけては清瀬市・東久留米市、南は小平市、西は東大和市に接する。北部に狭山丘陵の東端がかかり、その南側の武蔵野台地きた川・まえ川・空堀からぼり川・出水でみず川が、それぞれ北東方向に地形の傾斜に沿ってほぼ並行して流れる。空堀川と出水川の間には承応四年(一六五五)玉川上水から分水された野火止のびどめ用水が流れる。狭山丘陵以外の市域の標高はおよそ七四メートルである。市域を南北にJR武蔵野線が走り、北端に新秋津しんあきつ駅がある。ほかに西武鉄道各線(新宿線・池袋線・国分寺線・多摩湖線・西武園線)が縦横に延び、東村山駅・久米川くめがわ駅・秋津駅・萩山はぎやま駅・八坂やさか駅・武蔵大和むさしやまと駅・西武遊園地せいぶゆうえんち駅・西武園せいぶえん駅の八駅が置かれている。道路は東西に新青梅しんおうめ街道(主要地方道新宿―青梅線)、南北に府中街道(同立川―所沢線)が走り、北部を所沢街道(同東京―所沢線)と志木街道(同浦和―東村山線)が通る。

〔原始・古代〕

旧石器時代の遺跡には野行南やこうみなみ遺跡や笹塚ささづか遺跡などがある。縄文時代では中期の遺跡や住居跡の数がもっとも多く、代表的な集落遺跡として笹塚遺跡をあげることができる。下宅部しもやけべ遺跡からは後期・晩期の河道跡やその周辺でのさまざまな活動の痕跡が発見されている。同遺跡の対岸にある日向北ひなたきた遺跡からは晩期の住居跡や遺物包含層が検出されている。弥生時代の遺跡はほとんどない。古墳時代の遺跡は後期以降のものが目立ち、日向北遺跡や下宅部遺跡などがある。古墳は現在のところ発見されていない。東村山市No.2遺跡からは奈良時代の瓦塔が出土しており、完形に復原されて東京国立博物館に展示されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東村山市」の意味・わかりやすい解説

東村山〔市〕
ひがしむらやま

東京都西部,武蔵野台地にある市。小平市の北に位置し,北は埼玉県所沢市に接する。 1964年市制。地名は武蔵七党の一つ村山党の根拠地の東に位置していたことに由来する。狭山丘陵東部を占め,南北朝時代に新田義貞が北条氏を破った古戦場として有名。水に恵まれ,久米川を中心に古くから開けた。江戸時代には宿場町として発達,野火止用水の建設が開拓契機となり,新田集落も増加。第2次世界大戦後は,食品,電気機器の工場も立地。西武鉄道新宿線,国分寺線,多摩湖線の沿線に都営住宅団地や住宅・都市整備公団 (→都市再生機構 ) の団地が進出し,住宅都市となった。会社,学校などのグラウンドや病院,療養所が多く,東京都水道局東村山浄水場がある。野口町の正福寺地蔵堂は国宝。市域北部の狭山丘陵一帯は狭山都立自然公園に属する。面積 17.14km2。人口 15万1815(2020)。

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