東欧美術(読み)とうおうびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東欧美術」の意味・わかりやすい解説

東欧美術
とうおうびじゅつ

東欧の範囲は時代によりまた分析対象により異なるが、ここでは、ヨーロッパ・ロシア、バルト三国、アルバニアを除くヨーロッパの東部に位置する国々の美術史の概要を国別に述べる。美術史の系譜からいうと、ローマ・カトリック文化圏とギリシア正教文化圏の二つに大別されるが、文化の基盤をつくったのは、先住民の文化とおおむね古代ギリシア・ローマ文化、そこに移住、定着、あるいは通過していったスラブ民族、アジア系民族、北方の民族の諸文化である。それぞれの国の美術史においては、それに加えて征服民族(あるいは国家)の文化からの影響も大きく、伝統の文化に伝播(でんぱ)文化を調和させて独特な美術作品を創造した。

 ローマ・カトリック系文化の特色をもつのは、ヨーロッパの中央部に位置する旧チェコスロバキア(現、チェコ共和国スロバキア共和国)、ハンガリー、ポーランド共和国である。

 ギリシア正教文化圏に属するのは、マケドニア(現、北マケドニア共和国)などを含む旧ユーゴスラビア(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)とブルガリア共和国である。そこでの美術は、宗教に帰依(きえ)することとビザンティン美術の伝統を踏襲することという、宗教的規則と価値観のなかに長くとどまった。

 ルーマニアはローマ人により国家が形成されたが、その後の歴史のなかで国土の中央に位置するカルパティア山脈によってほぼ二つに分けられている。西側はローマ・カトリック文化、東側はギリシア正教文化を受容したためである。そしてそこに民族文化を融合させて独特な美を創造した。

 東欧諸国がそれぞれ民族的に統一国家として独立できたのは、20世紀の二つの世界大戦が終結したときである。自由と独立を手にしたのもつかのま、その後は、ロシアを中心とする社会主義体制下に組み込まれ、芸術は社会主義国家のために奉仕する宣伝美術の役割を担わされ、自由な創造活動は認められなかった。その体制から逃れて自由な創造の場を国外に求めた芸術家たちの感覚とエネルギーは、20世紀のほかのヨーロッパ諸国やアメリカの前衛的な芸術家を大いに刺激した。

 1989年に始まる社会主義体制の崩壊とともに、東欧諸国の現代美術家たちは完全な創造の自由を取り戻し、活発な制作に向かうことができるようになった。しかしその反面、社会主義時代のような経済的な保障を失った美術家たちが、まだ十分な経済力を回復していない自国で創作活動をするのはむずかしく、活動の場を世界に求めている。

[濱田靖子]

ローマ・カトリック文化圏に属する国々の美術

旧チェコスロバキアの美術

チェコの建築の歴史は、8世紀ごろスラブ民族が南モラビア地方(現、スロバキア共和国)に居住地をつくったことに始まり、10~12世紀にロマネスク様式の建築による都市が形成された。続く13~15世紀にはゴシック様式の建築が伝えられ、現在のチェコ共和国の首都プラハは、ドイツ、オーストリア、イタリアなどヨーロッパ各地の建築文化の影響を受けながら都市として発展した。とくに都市計画の基礎は、神聖ローマ皇帝カール4世(在位1347~1378)時代につくられたといわれている。その都市計画に基づくゴシック建築、それに続くルネサンス、16世紀末のハプスブルク家のルードルフ2世(在位1576~1612)時代に伝えられたバロックと、各時代の各様式の建造物が互いに調和するように建てられた。フラチャニ城内の聖イジー教会堂は10世紀にロマネスク様式により創建された。聖ビート大聖堂は14世紀に創建され、20世紀になってから完成をみたゴシック様式の聖堂で、内部のステンドグラスは、アルフォンス・ミュシャのデザインによってつくられたものである。聖ミクラーシュ教会堂は13世紀に建立され、17~18世紀にバロック様式に改築された。

 城館建築は主としてボヘミア地方にみられる。皇帝カール4世時代に建てられたゴシック様式のカレルシュタイン城(創建1348~1358)をはじめ、ボヘミア王侯貴族の城館が100余り点在する。カレルシュタイン城内の聖マリア教会堂にはフレスコ画も残っている。

 一方、絵画はゴシックとバロック様式が主流であった。ギリシア正教の伝播した諸国に長くとどまったイコンとは異なる、生彩あるゴシック様式によって描かれた宗教画、祭壇画に代表される。歴代皇帝の装身具や宝物に、工芸技術の高さが示されているが、チェコの工芸の代表はボヘミア・ガラスである。紀元前後にローマ人によってガラスの製造技術が伝えられ、その後ベネチア・ガラスの影響を受けながら、ボヘミア独自のガラスを模索した結果生み出されたものである。17世紀にイギリスで開発された透明度の高いクリスタルガラスと、ガラス芸術の可能性を求めたチェコのガラス技術や芸術家の動向は、つねに世界から注目を集めている。

 1910年代から1920年代は、外来の文化とチェコの伝統文化とがみごとに融合した時代であった。なかでも1910年代の絵画におけるキュビスムの流行の影響が建築にも及んだ。建築にも光と陰の効果を求めてキュビスムが取り入れられたのである。それはまたボヘミア・ガラスのカットの効果からインスピレーションを得たとも、またゴシック建築の天井装飾からともいわれる。

 チェコが独立した1918年以降の古典主義的の構成の時代には、初期のキュビスムよりも、民族色の強い円や三角形など幾何学的な装飾を用いたロンド・キュビスムが流行した。これは、絵画におけるキュビスムを建築に適応させたチェコ特有のスタイルで、チェコ・キュビスム(1909ごろ~1924)の後期(1918以降)に現れた多彩で円形を特色とする。国家独立とそれに伴う民族意識の高揚とともに、建築家たちはチェコ・フォークロアのなかに民族的モチーフを求めた。代表作にレギオン銀行(1922~1924)がある。もっとも新しいものはアメリカの現代建築家フランク・ゲーリーにより設計されたナショナル・ネーデルランデン生命保険会社のオフィスビル(1997)である。海外で活躍する建築家も輩出した。日本の建築家を養成したことでもよく知られたアントニーン・レイモンドAntonin Raymond(1889―1976)、広島の原爆ドームの設計者ヤン・レツルJan Letzel(1880―1925)などである。

[濱田靖子]

ハンガリーの美術

ハンガリーはローマの支配下に入った紀元1世紀ごろから8世紀にかけて、アジア系とゲルマン系の民族が侵入し、ドナウ川流域を中心に興亡の歴史を繰り広げた。この時代に残された金工品(武具、馬具、服飾品)には、北方民族のプリミティブな特色に加えて、イランの影響を思わせるものも見受けられる。キリスト教美術も早い時期から伝わったが、この地域が11世紀にローマ・カトリック圏に入ったことから、ペーチ大聖堂、ヤック修道院聖堂などに代表されるロマネスク、ゴシック諸様式の聖堂建築が盛んとなった。壁画の遺例には、ビザンティン絵画の影響も認められ、また彫刻の装飾模様のなかには、イラン系の動植物との関係を思いおこさせる地方様式もみられる。14世紀以降は、祭壇画、彩色木彫も盛んとなり、聖祭具をはじめとする貴金属工芸、ブロンズ彫刻が盛んとなった。18世紀初頭以降のハプスブルク家に統合された時代の建造物、ブダペストの聖アンナ聖堂、城館の代表であるゲデレ城、フェルテード城などは、伝えられたイタリアのバロック様式の代表例である。

 絵画は17世紀以降、肖像画家の活躍が盛んとなった。マルコー・カーロイMarkó Károly(1791―1860)は数少ない風景画家の一人で、古典的手法で風景画を描いた。19世紀に入ると、フランス絵画の影響が主流となり、フェレンツィ・カーロイFerenczy Károly(1862―1917)は、ハンガリー印象派(印象主義)の先駆者として知られる。

 建築の分野でもフランス美術の影響は大きく、1897年ケチケメートにレヒネル・エデンLechner Ödön(1845―1914)の設計によるハンガリーで最初のアール・ヌーボー様式による市庁舎が建てられ、ひときわ異彩を放った。国外に芸術活動の場をみいだした代表的な芸術家は、アメリカに渡ったモホリ・ナギ(モホリ・ナジ)である。社会主義時代の1970年代から西ヨーロッパ寄りの経済政策をとっていたハンガリーでは新体制後の復興も早く、長い伝統と歴史のなかで育まれた豊かな民族色を、陶芸、木彫、刺しゅう、グラフィック・デザインなどに反映させている。

[濱田靖子]

ポーランドの美術

ヨーロッパの東端に位置するポーランドは、ローマ・カトリックを国教として10世紀に建国されて以来、ヨーロッパの美術様式と密接なかかわりをもって発展した。11~17世紀の600年間事実上の首都であったクラクフは、14世紀のヤギェウォ朝時代に全盛期を迎え、ウィーン、プラハに並ぶ中部ヨーロッパ文化の中心地となった。

 クラクフの聖マリア聖堂の高さ13メートルに及ぶ大祭壇(マリ大祭壇、1477~1489)の彫刻は、ドイツの彫刻家ファイト・シュトスの手になる最高傑作である。政治的な黄金時代とよばれる16世紀には、イタリア、フランス、ドイツ、ボヘミア、フランスから巨匠を招くことさえ可能となり、ルネサンス、バロック、ロココ、新古典様式の各時代の様式を取り入れた建築、彫刻、絵画の傑作が残された。イタリアの画家カナレット(ベルナルド・ベロット)も、第二の首都ワルシャワで活躍した芸術家の一人である。

 国土が3分割された悲劇の19世紀は、愛国精神の高揚のために描かれたリアリズムの歴史画が主流であった。ピョトル・ミハウォフスキPiotr Michałowski(1800―1855)、ミュンヘンその他各地で名声をはせたギェルイムスキ兄弟の兄マクシミリアン・ギェルイムスキMaksmillian(Maks) Gierymski(1846―1874)が頂点に立った。弟のアレクサンダー・ギェルイムスキAleksander Gierymski(1850―1901)は晩年ポーランド印象派への道を開いた。19世紀後半は、パリ、ミュンヘンに自由の場を求めた若い画家たちが、印象主義、象徴主義、アール・ヌーボーから刺激を受けて帰国し「若きポーランド」の名のモダニズムを創造した。なかでも画家・劇作家として多才なビスピアンスキStanisław Wyspianski(1869―1907)は、ゴーギャンや日本の浮世絵から強い刺激を受けて帰国、クラクフ美術学校で指導にあたるほか、インテリア、舞台装置、装丁、家具など幅広い芸術活動を行った。

 1918年のポーランドの独立によって、愛国主義の絵画の時代は終わり、自由な絵画の時代が始まった。未来派(未来主義)やキュビスムの基本理念と同じ基盤に立つフォルミスム、表現主義、構成主義、コロリスト(線や量感、構図よりも色彩を重視する)などの影響下に、西ヨーロッパの動きに足並みをそろえた活発な創作の時代が続いた。それが一変したのは、第二次世界大戦中であり、それに続く社会主義リアリズムが強要された芸術家暗黒時代とよばれた時期である(1945~1954)。

 1955年にはパリのアンフォルメルの抽象芸術がポーランドの美術界に紹介され、それに刺激されて前衛芸術を主流とする活発な動きがポーランドに戻った。グラフィック・デザイナーの登竜門といわれる国際ビエンナーレ展が、1966年以来、ポスター部門はワルシャワ、グラフィック部門はクラクフで開催されている。大きな美術学校のあるクラクフを中心に、現代美術、グラフィック美術ともに活気づいている。

[濱田靖子]

ローマ・カトリック文化とギリシア正教文化の狭間(はざま)における美術

ルーマニアの美術

現在のルーマニアの領土、カルパティア・ダニューブ(ドナウ)地域には、旧石器時代から人類が居住し絶え間なく文化が築かれてきた。新石器時代末期(前5000年ごろ)の螺旋(らせん)つなぎ文を基調とする彩文土器、生殖を象徴する土偶も出土。南部を中心につくられた紀元前三千年紀(青銅器時代)の武器や武具、装身具には、すでに東部地中海地方の影響が認められる。鉄器時代に入った紀元前7~前5世紀には、スキタイ人との接触のほか、黒海沿岸のギリシア植民地を通じたギリシア文化の跡も見受けられ、ルーマニアの文化的背景がいかに広範で多様であったかが知られる。

 ダキア州、モエシア州がローマ帝国の植民地となった紀元2~3世紀には、ヘレニズム、ローマ様式による城壁や舗床(ほしょう)モザイクがつくられた。ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルとの接触が早かったルーマニアではキリスト教の採用も早く、おのずと文化的特質がそこに定まった。しかし、ローマ・カトリック文化の国と隣接する地理的環境に加えて、民族的にローマの血を引く国民性ゆえ、ローマ・カトリック文化も抵抗なく取り入れた。とくにモルドバ地方の建築様式はそのような事情を例証するもので、木造の伝統的な民家のもつ地方様式と、東西二つのキリスト教文化をあわせた3要素をみごとに融合させた独特な教会建築様式を生み出した。

 10~14世紀の建築をはじめとする美術は、このギリシア正教に伴う宗教美術(ビザンティン美術)が支配的であった。伝えられた様式に南部ワラキア地方固有のスタイルを加えながら勢いよく広まった。アルジェシュの聖ニコラス・ドムネスク聖堂(1340ごろ)とコジアのコジア修道院(1388)には、パレオロゴス朝ビザンティン様式の流れをくむ手法の貴重な壁画が残っている。れんがと彩釉(さいゆう)タイルで外壁を飾る様式が伝わり、それが発展して15世紀に北部モルドバ地方の建築様式となった。ギリシア十字型プランに、独特なドームとゴシック風の装飾様式を取り入れたモルドバ固有の聖堂建築様式である。れんがと彩釉タイルはさらに拡張され、聖堂内部だけでなく外敵からの守護を願って外壁全面を埋め尽くす迫力ある壁画となった。代表的なものにボロネッツ修道院の聖ゲオルゲ教会堂(創建1488)、ネアムツ修道院の昇天教会堂(創建1497)、スチェビツァ修道院のキリスト復活教会堂(16世紀末)がある。その後は積極的にゴシック様式を摂取するトランシルバニア地方と、コーカサス地方の装飾様式に影響を受けるワラキア地方とに地理的に二分された。脈々と受け継がれる木造文化を基調とした村の生活のなかから、ガラス絵イコンが生まれた。18世紀の建築では、モルドバ地方に新古典様式が、ワラキア地方にはバロック様式がそれぞれ伝播するが、伝統様式に巧みに融合された。

 絵画は宗教画から素朴な民話を題材とする傾向に向かったが、19世紀後半、愛国精神に貫かれた歴史画が描かれるようになった。画家テオドール・アマンTeodor Aman(1831―1891)は、トルコ支配からの人民解放の願いを込めて一大歴史画を制作する。1850~1858年パリで学んだ経験を生かして、アマンはブカレストに美術学校を創設し初代校長となって後進のために大きな足跡を残した。外来文化の摂取が盛んだった19~20世紀に、ふたたび写実傾向が強まるが、彫刻家ブランクーシは、それに飽き足らず国外に創作の場を求めて1904年パリに出た。その生命の本質に問いかけるような、東洋的で純粋素朴な抽象彫刻は、前衛作家たちを刺激し現代彫刻に大きな影響をもたらした。

[濱田靖子]

ギリシア正教文化圏に属する国々の美術

旧ユーゴスラビアの美術

バルカン半島の西北部、現在のセルビア、モンテネグロ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、北マケドニア共和国を含む地域の美術。

 先史時代から、この地域はアジアと西ヨーロッパの双方から移動する民族の通過路であった。ドナウ川とサバ川の流域に分布する遺跡からは青銅器時代の色鮮やかで形もさまざまな彩文土器が出土した。前7世紀、アドリア海沿岸にギリシア植民都市の建設が始まり、また前3世紀以後、ローマ文化が伝播してからはローマ文化が主流となった。ローマ文化の影響を示す代表的な例として、プーラ(クロアチア)の円形劇場(1世紀)、スプリト(クロアチア)のディオクレティアヌス帝の宮殿址(し)(3世紀末)がある。キリスト教時代に入った6世紀の都市遺跡がポレチ(クロアチア)、ビトラ、ストビ(北マケドニア共和国)などに残る。

 ギリシア正教を受容した11世紀の中ごろから、コムネノス朝ビザンティン絵画様式に基づく壁画のある聖堂の建築が、大主教座の置かれたマケドニア地方から始まった。オフリドの聖ソフィア大聖堂(11世紀中ごろ)、プレスパ湖岸グルビノーボの聖ジョルジェ聖堂(12世紀)、ネレジの聖パンテレイモン修道院主聖堂(13世紀)などがある。

 13~14世紀、セルビアのネマーニャ朝の最盛期には、ビザンティン美術の伝統を基にして、独自の民族的な特色を加味した聖堂が各地に建立された。なかでも聖堂建築の主流をなしたのはラシュカ派であった。その代表例としてストゥデニツァ、ミレシェバ、ソポチャニの修道院主聖堂があげられる。ギリシア人画家の手になる教会壁画芸術の中心は、14世紀後半にセルビア地方のモラバ川下流域に移り、ラバニツァ、マナシヤ、カレニチなどの地に、外壁にれんがの横縞(よこじま)の装飾を施すのを特徴とするモラバ派の建築様式により修道院聖堂が建てられた。

 西北部のスロベニアからアドリア海沿岸地方にかけては、西ヨーロッパの影響が強く12世紀に北イタリアやフランス、ドイツのロマネスク様式が伝播した。ロマネスク様式ではザグレブ(クロアチア)の大聖堂(1280年代)、ロマネスクとゴシックの折衷様式ではクロアチアの海岸にある聖ロブレ大聖堂(13世紀)などがある。トルコ支配下の15世紀以降は、アドリア海沿岸地域が残された場となり、地方の芸術家たちに活躍の機会を与えた。西部山岳地帯のボスニア・ヘルツェゴビナには、12~19世紀にかけてボゴミル派のキリスト教徒の墓石や石棺を非具象の装飾文様で飾る特異な文化がみられる。

 近代芸術は、オーストリアやドイツ文化の吸収に始まった。20世紀には、印象派やフォービスムに刺激された画家たちと保守派との確執もみられた。1930年代からは、ベオグラード(セルビア)、ザグレブ、リュブリャナ(スロベニア)など大都市に拠点を置く芸術家たちの関心は、もっぱらパリの新しい芸術の動向であった。さまざまな芸術が生まれるなかで、もっとも国内外で活躍したのが南スラブ民族の様式をもつ彫刻家イワン・メシュトロビチである。題材を民謡に求める彼の作品は、分離派の影響による単純な表現だが、国際的にも認められ大きな足跡を残した。社会主義体制の終焉(しゅうえん)まで、ナイーブ派(素朴派)とよばれた農民画家の国際的な活躍も目覚ましいものがあった。

[濱田靖子]

ブルガリアの美術

バルカン半島の東に位置するブルガリアには、先住民トラキア人の残した金銀遺宝をはじめ、ギリシア・ローマ化時代、ビザンティン時代、トルコ支配時代、民族復興期などの多様な美術作品が残されている。アケメネス朝ペルシア、ローマ、古代マケドニア王国に侵略された後、ギリシア・ローマ化した先住民トラキア人が、紀元6~7世紀に移住してきたスラブ人、プロト・ブルガール人と合体して第一次ブルガリア帝国(681~1013)を形成した。キリスト教が正式に国教に採用される(864または865)以前からすでにキリスト教化が始まり、ネッセバールの旧府主教管区教会堂(5世紀)、ソフィアの聖ソフィア聖堂(5~6世紀)などが建設された。ブルガリア王国の最初の首都プリスカ、第二の首都プレスラフには、巨大な切石を使った長方形の宮殿がつくられ、プリスカの大バシリカ、プレスラフの円形教会堂など、ビザンティン風の教会堂も建てられた。繁栄期にあったその時代の異教美術の代表作は、マダラ村の岸壁に残る高さ2.6メートルの巨大な浮き彫り像、マダラの騎士像(8世紀)で、ヨーロッパでは珍しい磨崖(まがい)(摩崖)浮き彫りの例である。855年、キリル(コンスタンティノス)、メトディオス兄弟とその弟子によってブルガリアでキリル文字がつくられ、ビザンティンの教典とともに各国に伝えられた。ローマ時代に陶器製作所のあったプレスラフの近郊のパトレイナ修道院からは20枚の彩色陶板によってつくられた他に類をみないイコン、聖テオドール像(9世紀末または10世紀)が発見された。ビザンティンに併合された時代(1018~1186)の代表作は、ビザンティンから派遣された聖職者によってプロブディフ近郊に創建されたバチコボ修道院(創建1083年)である。その付属聖堂にはビザンティンの首都の様式の特徴をもった壁画が残されている。1186年、ビザンティン帝国から主権を奪回してふたたび第二次帝国が興ると、ローマ時代の要塞(ようさい)の残るタルノボ(現、スタラ・タルノボ)に首都が移った。タルノボが美術の中心となり、ビディン、セルディカ、さらにリラ修道院がそれに続いたが、全般に聖堂建築は小規模になった。13~14世紀の宗教美術は、中世初期の伝統を受け継いだタルノボ派が主流をなし、コンスタンティノープル、サロニカ(テッサロニキ)、アトス山などのビザンティン美術の影響に加え、西ヨーロッパ美術の影響もうかがえる。注目されるのはソフィア近郊のボヤナ教会堂の壁画、教会堂の寄進図(1259)である。寄進者カロヤンと妻デシスラバ、皇帝コンスタンティン・アセンと皇妃イレネを描いたこの肖像画にみられる心理描写と写実性は、ビザンティン・ルネサンスの到来を暗示する傑作と賞賛されている。ルセ州イワノボ村の洞窟教会堂の壁画(13世紀)もまた傑作の一つである。全般に東部はビザンティンのパレオロゴス・ルネサンスの影響が著しく、西部は旧来の古風な様式を踏襲していた。イコンの制作の中心地は、タルノボ、メセンブリア、リラ修道院、ポガノボ修道院などであった。ミニアチュール、繊細な木彫による教会の扉、聖祭具、金属細工の制作が盛んであった。それまで植物文や動物文の写本装飾が主であったが、14世紀にタルノボで優れた写本挿絵が制作された。オスマン・トルコの支配時代(1396~1878)には、建築物の高さの制限を受けた。画工たちのなかには近隣諸国やロシアに逃れて制作に携わった者が少なくない。18世紀後半からひそかに始まった民族復興運動の気運が、やがて文化のあらゆる面に広がった。民族的な住居の様式が確立したのもこの時期で、絵画の様式も宗教画から世俗画に移り始めた。またこの時期、トリャブナ、サモコフなどの地方に新しい流派ができた。1878年にトルコの支配から解放されてからは、西ヨーロッパの文化を急速に摂取し、印象主義、後期印象主義、表現主義などの影響を受けた。1944年から1989年の共産主義体制下にあった時代は、国家のために制作する芸術家たちはユニオンによって経済的にも保障されていたが、1989年の社会主義の崩壊後は経済的な基盤を失い、芸術家たちは表現の自由と引き換えに厳しい時代を迎えている。旧体制下から始まったユーモアと風刺作品による国際美術展The International Biennale of Humour and Satire in Artsは奇数年ごとに開催されている。

[濱田靖子]

『赤地経夫撮影・文、伊藤大介他執筆『レヒネル・エデン――ハンガリーの世紀末建築』(1990・図書出版社)』『音楽之友社編・刊『ガイドブック音楽と美術の旅 チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランド』(1995)』『長谷川智恵子著『ヨーロッパの美術館めぐり』(1998・昭文社)』『井口寿乃著『ハンガリー・アヴァンギャルド――MAとモホイ=ナジ』(2000・彩流社)』『フィリペック・スタニスワフ監修『大聖年公式美術全集――ポーランドと日本現代美術の響き』(2000・美研インターナショナル、本の泉社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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