東氏(読み)とううじ

改訂新版 世界大百科事典 「東氏」の意味・わかりやすい解説

東氏 (とううじ)

下総出身の中・近世武家。平姓千葉氏族。千葉常胤の六男六郎大夫胤頼(たねより)を祖とする。東胤頼は上西門院(鳥羽天皇の皇女統子)に仕え,下総国香取郡東荘を領して東氏を称した。神護寺僧文覚(もんがく)と師弟の契を結び,また源頼朝の挙兵(1180)に際し長兄胤正の子成胤とともに下総国の目代を討った。1185年(文治1)頼朝から父常胤に与えられた三崎荘を父から譲与された。胤頼の子重胤は3代将軍源実朝に仕え〈無双の近仕〉と称された歌人で,その子胤行(素暹)は藤原為家(藤原定家の子)の娘婿となり,二条流の歌人として名高い。胤行は承久の乱(1221)の勲功により美濃国郡上郡山田荘の地頭職に補任され,この地を本領として移り住んだ。宝治合戦(1247)には大須賀胤氏とともに一族の千葉秀胤を討滅。胤行の子孫にも歴代歌人が輩出しているが,室町時代に出た東常縁(とうのつねより)が特に有名である。子孫は近世には遠藤氏を名のり,慶隆のとき徳川氏に属し,関ヶ原の戦の勲功により美濃国郡上郡八幡城主となり,2万7000石を賜領した。1698年(元禄11)近江国三上に転封,1870年(明治3)和泉国に移り,藩名を吉見藩と改め,78年より旧姓東氏に復する。のち子爵。
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世界大百科事典(旧版)内の東氏の言及

【下総国】より

…五郎胤道(通)は始め葛飾郡国分(市川市)を譲与されたといわれ,のち香取郡本矢作(もとやはぎ)城を本拠とし子孫は国分氏を称した。六郎大夫胤頼は香取郡東荘(とうのしよう)(東庄町)を領して東(とう)氏を称しのち海上郡三崎荘(銚子市,旭市,海上町)をも父常胤より与えられたという。三崎荘は1185年(文治1)地頭の片岡常春が頼朝に所領を没収され常胤に与えられたものである。…

【大和[町]】より

…中心集落は長良川と支流栗巣川の合流点付近の徳永で,長良川鉄道,国道156号線が通る。中世は山田荘に含まれ,1221年(承久3)下総国千葉氏の一族東(とう)氏が新補地頭に任命され,以後1559年(永禄2)遠藤氏に滅ぼされるまで東氏の支配下にあった。東氏は代々歌道の秘伝を伝え,室町時代には東常縁(とうのつねより)が居城の篠脇(ささわき)城で宗祇に古今伝受をしている。…

※「東氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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