東漢駒(読み)やまとのあやのこま

改訂新版 世界大百科事典 「東漢駒」の意味・わかりやすい解説

東漢駒 (やまとのあやのこま)

6世紀末ころの廷臣生没年不詳。《日本書紀》によれば,大臣(おおおみ)蘇我馬子は587年(用明2),用明天皇死後に大連(おおむらじ)物部守屋を攻め滅ぼして朝廷実権握り崇峻天皇を立てたが,やがてこれと疎隔し,592年(崇峻5)11月に東漢駒を遣わして天皇を殺させた。駒はその直後に蘇我氏の娘で天皇の嬪(夫人一種)であった河上娘(かわかみのいらつめ)を盗み出して自分の妻にしていたのが露見し,馬子に殺されたという。駒は磐井の子という伝えもあったというが,東漢氏(やまとのあやうじ)の一族の中における系譜関係は明らかでない。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東漢駒」の解説

東漢駒 やまとのあやの-こま

?-592 6世紀後半の官吏
東漢磐井(いわい)の子といわれる。崇峻(すしゅん)天皇5年11月蘇我馬子(そがの-うまこ)の命で天皇を暗殺したが,馬子の娘で天皇の嬪(ひん)であった河上娘(かわかみのいらつめ)をぬすんで妻としたことが知れ,馬子に殺された。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の東漢駒の言及

【崇峻天皇】より

…587年用明天皇の死後,大臣蘇我馬子は大連(おおむらじ)物部守屋を攻め滅ぼして,その権力を確立すると,敏達皇后の豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめのみこと)(推古天皇)らとともに,泊瀬部皇子を推して即位させた。天皇は倉梯(くらはし)(奈良県桜井市倉橋)の地に宮を造らせ,また大伴糠手(ぬかて)の女の小手子(こてこ)を妃として蜂子(はちのこ)皇子と錦代(にしきて)皇女をもうけていたが,やがて馬子と疎隔したらしく,592年11月馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に天皇を暗殺させ,その日のうちに倉梯岡陵に葬った。【関 晃】。…

※「東漢駒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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