東郷荘(読み)とうごうのしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東郷荘」の意味・わかりやすい解説

東郷荘
とうごうのしょう

中国地方にあった京都嵐山(あらしやま)の松尾(まつお)大社領荘園伯耆(ほうき)国河村(かわむら)郡内の東郷池とその周辺(現鳥取県東伯(とうはく)郡湯梨浜(ゆりはま)町付近)にあり、平安末期に成立した。1258年(正嘉2)11月付けの「伯耆国河村郡東郷荘下地中分図(したじちゅうぶんのず)」が史料上の初見である。この図で天神(てんじん)川の流路などの実態と、荘園を領家(りょうけ)と地頭(じとう)とが折半する際の具体的な様相がわかる。とくに領家は西方、地頭は東方と池を中心として分けながら、耕地集落、山野それぞれでも均等に分けることを目標とし、現地に堀切を設けようとした点は特徴的である。室町期には守護山名(やまな)氏の領国制により、松尾大社領としての実を失う。荘域に伯耆一宮(いちのみや)の倭文(しどり)神社がある。

三木 靖]

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改訂新版 世界大百科事典 「東郷荘」の意味・わかりやすい解説

東郷荘 (とうごうのしょう)

中世,伯耆国河村郡(戦国期は久米郡に属する)にあった京都松尾神社領荘園。平安末期に成立した河村郡東郷が荘園に転化したものと推定されるが,荘園成立の時期および成立過程等については明らかでない。1258年(正嘉2)11月に作成された有名な〈伯耆国河村郡東郷荘下地中分図〉がその史料的初見で,これによるとその荘域は東郷池周辺地域一帯,のちの鳥取県東伯郡湯梨浜町の旧東郷町,旧羽合町・旧泊村の一部をその中に含んでいた。下地中分の主体となった地頭名は不明だが,中分は地頭方=東方,領家方=西方を原則とした。ただしその実効性には疑問があり,また南北朝・室町期には守護山名氏とその被官人による押領が相次ぎ,松尾社による東郷荘支配は戦国期をまたずして崩壊してしまったようである。荘域内には伯耆国一宮倭文(しどり)神社とその社領があり,また伯耆南条氏の拠城羽衣石城ももとはその荘域の内にあった。
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百科事典マイペディア 「東郷荘」の意味・わかりやすい解説

東郷荘【とうごうのしょう】

伯耆国河村郡の荘園。現鳥取県湯梨浜町にある東郷池の周辺地域一帯。京都松尾(まつのお)大社領。立荘の年次経緯は不明。1258年に下地中分され,その際に作成された絵図が荘名の初見。中分は東を地頭分,西を領家分とし,田畑だけでなく,山林・馬野(牧場か)なども均分している。ただ当時の地頭名は不明。南北朝期から守護による押妨(おうぼう)が相次いだが,16世紀前期ころまで松尾社の知行は続いていた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東郷荘」の解説

東郷荘
とうごうのしょう

伯耆国河村郡にあった荘園。荘域は鳥取県湯梨浜町付近。平安末~鎌倉前期に河村東郷が立荘され,松尾社領として成立。1258年(正嘉2)に松尾社と地頭の間で下地中分(したじちゅうぶん)が行われたが,このとき作成された絵図は中分絵図の典型として有名。室町中期には守護山名氏の請地となり,松尾社の支配は衰退した。

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