杵築城下(読み)きつきじようか

日本歴史地名大系 「杵築城下」の解説

杵築城下
きつきじようか

[現在地名]杵築市杵築・南杵築みなみきつき

高山たかやま川と八坂やさか川に挟まれ、東端の海上に浮ぶ小島に城が置かれ、みなみ台・北台の台地上を武家屋敷とし、城の南から西方に谷川に沿って商人町を形成する。南と北の武家屋敷が中央にある商人街を挟んだサンドイッチ型の城下町である。応永元年(一三九四)領主である木付氏四代頼直は、居城であるたけ城が狭く、高山川が土砂の堆積により大船の舟航が困難となったので、要害堅固な地を選び、海上に浮ぶ小島であるだい山に城を築いた。文禄二年(一五九三)木付氏は滅亡し、その後の変遷を経て、慶長五年(一六〇〇)二月丹後国宮津みやづ(現京都府宮津市)の城主細川忠興速見郡由布院ゆふいんで六万石を加増された。忠興は家臣の松井康之有吉立行に城受取りを命じた。立石一件(松井家文書)によれば「有吉立行は木付御城代を勤め候ように」とあり、さらに「町在之頭立候者を召し集め、御法度の趣を申し聞かせ」とある。なお「町より焼立、下町大手際迄焼上申候」「大手観音堂下百姓共逃散候跡の焼屋敷」とあり、大手観音堂は城の北側、大手門の所にあったので、百姓が住んでいたとすればその周辺で埋立が行われていたのであろう。「寄手は町上の高みに追上げ」とあるから、町は城を中心とする低地の船着場付近にあったと考えられる。立石一件は細川忠興の城受取りから、関ヶ原の戦の際に大友吉統により木付城が攻撃を受けたことを詳しく書いており、町に関する初見文書である。しかし小倉藩元和人畜改帳には城下についてはまったく記載されてなく、城下外のみ村名・人名・家族等が記されている。城下町に関する記録は、元禄一一年(一六九八)の木付町屋鋪御改帳面写(天満社所蔵文書)が最も古く、商人町もほぼ完成されている。御客屋・御分知役所なども備えられ、領内各港の代表的商人の屋敷も城下に建てられている。

寛永年間(一六二四―四四)と思われる木付城下図(浅野文庫)によれば、城の西のみが町で、のちの谷川筋は何も描かれず、北台と南台が武家屋敷、のちの寺町の所に「カラホリ二丁半ホト」と記されている。正保二年(一六四五)松平(能見)英親が速見・国東くにさき各郡のうち三万七千石を領して木付きつき城へ入った。このうち三千石は弟重長、二千石は弟直政分であった。弟二人の分知領は天和二年(一六八二)それぞれ知行坪付が行われ、重長には一五ヵ村、直政へは七ヵ村が宛行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の杵築城下の言及

【杵築[市]】より

…観光地としては,よく保存されてきた旧城下町の町並み,奈多海岸,住吉浜などがある。【勝目 忍】
[杵築城下]
 はじめ〈木付〉と書かれたが,1712年(正徳2)幕府の朱印状に〈豊後国杵築領〉とされたことにより改められた。中世には大友氏の一族木付氏の居城であったが,1593年(文禄2)同氏が滅亡して,1600年(慶長5)細川忠興領となり,松井康之,有吉立行が城代となる。…

※「杵築城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android