杵築(読み)きつき

精選版 日本国語大辞典 「杵築」の意味・読み・例文・類語

きつき【杵築】

大分県北東部、国東半島南部の地名。松平氏三万三千石の旧城下町江戸時代から七島藺(しちとうい)生産の中心地で、豊後表を集散した。現在は、ミカンをはじめとする果物、花卉(かき)の栽培が盛ん。昭和三〇年(一九五五)市制。

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デジタル大辞泉 「杵築」の意味・読み・例文・類語

きつき【杵築】

大分県、国東くにさき半島南部にある市。江戸時代、松平氏の城下町。柑橘かんきつ類のほかイチゴ・花卉栽培が盛ん。平成17年(2005)10月、大田村・山香町と合併。人口3.2万(2010)。

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日本歴史地名大系 「杵築」の解説

杵築
きづき

島根半島の北西端、現大社町に鎮座する杵築大社(出雲大社)を中心とする地域。中世以降都市的景観がみられ、同社の門前町として栄え、杵築町とも称された。中世に入り、「出雲国風土記」や「和名抄」にみえる古代の神門かんど杵築郷が、新しく再編成され国衙領として成立した。しかし中世出雲国の国鎮守(一宮)杵築大社が鎮座することから、一般の国衙領とは異なる神聖な領域(境内は神域)とされ、郷名を冠さず杵築とよぶのが一般的であった。鎌倉中期の出雲国内すべての庄園・国衙領を書上げた文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳においても、神魂かもす(現松江市)の鎮座する大庭田尻おおばたじり保とともに記載されていない。太閤検地以後は杵築村ともいう。

〔中世杵築の景観〕

中世の杵築が古代の杵築郷と異なる特徴の一つは、その領域が明確に定められていたことにある。建武二年(一三三五)一二月三日の尼覚日譲状(北島家文書)に「いつものくにきつきのやしろのうちのさかへ、せきや・やのゝむら、さきのうら、おほみなと」とあり、天文二一年(一五五二)三月二二日と永禄元年(一五五八)六月日に尼子氏が杵築大社に宛てて出した杵築法度とよばれる掟書(佐草家文書・千家家文書)にも、杵築大社の殺生禁断の領域として「東ハひしねの関屋を限、辰巳ハ高浜、南ハ河より是内」「東ハ菱根関屋、巽者高浜、南ハ川可限之」などと記される。このうち、南側の境界を示す河は当時西流して日本海に注いでいた斐伊川をさし、南東の境を示す高浜たかはまはその傍らに位置した。高浜の地名は現存しないが、宝治二年(一二四八)頃の作成と推定される杵築大社并神郷図(千家家蔵)鳥居田とりいだと並んで高浜の地名が記される。現在も出雲市松寄下まつよりしも高松たかまつ小学校の東方に小地名として残る鳥居田について、「雲陽誌」は「田の中に巨石あり、杵築大社の鳥居石なり、古は此所に一の鳥居を建たりといふ」と述べている。現在の同市はま浜山はまやま公園の南部をかつて高浜といい、ここに鳥居が建てられ、南方からの杵築大社参詣道の一つとされていたと推定される。

境界の一つとされる「おほみなと」(大湊)は斐伊川の河口部、現在の杵築西地内湊原みなとばら地域に設けられていた湊とみられ、前掲絵図にも斐伊川河口部北側に湊社が描かれている。東側の境界とされる関屋せきやは現在も菱根ひしねの内に地名として残り、近世にはここに関所が設けられたといわれ、平田方面から大社参詣に向かう東側の入口とされた。

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改訂新版 世界大百科事典 「杵築」の意味・わかりやすい解説

杵築[市] (きつき)

大分県北東部にある市。2005年10月旧杵築市と山香(やまが)町,大田(おおた)村が合体して成立した。人口3万2083(2010)。

杵築市北部の旧村。旧西国東(にしくにさき)郡所属。人口1906(2000)。国東半島の中央部に位置し,村域の大半を山林,原野が占める山村で,農業を主とする。米作のほか,畜産や施設園芸などが行われ,近年はシイタケ栽培が盛ん。村の人口は減少を続け,1970年以来過疎地域振興法の指定地となっていた。村内には六郷満山の文化財が多く,田原家五重塔,石丸の国東塔,財前家国東塔は重要文化財に指定されている。白鬚神社はどぶろく祭で知られる。
執筆者:

杵築市東部の旧市。国東半島南部にある。1955年杵築町と八坂,北杵築,奈狩江の3村が合体,市制。人口2万2746(2000)。市域は八坂川下流の三角州,洪積台地,丘陵地に広がる。近世は杵築藩の城下町として栄えた。明治以降,杵築は速見郡の東に偏していたため郡役所は日出(ひじ)町に置かれたが,速見郡の中心都市としてよりは,国東半島南部の玄関口にあたる一地方中心都市としての特色をもっていた。近世から栽培が盛んになったシチトウイは青表(豊後表)に加工され,その集散地として全国的に有名であったが,第2次大戦後,需要の変化によってしだいに減少していった。代わってかんきつ類の栽培が盛んとなり,栽培面積700ha,年間約9000t(1995)の産額を誇る。また,近年は緑茶の生産も盛んとなっている。観光地としては,よく保存されてきた旧城下町の町並み,奈多海岸,住吉浜などがある。JR日豊本線が通る。
執筆者:

はじめ〈木付〉と書かれたが,1712年(正徳2)幕府の朱印状に〈豊後国杵築領〉とされたことにより改められた。中世には大友氏の一族木付氏の居城であったが,1593年(文禄2)同氏が滅亡して,1600年(慶長5)細川忠興領となり,松井康之有吉立行が城代となる。この時〈町在〉という文言があり,一応の商人町が形成されていた。32年(寛永9)には小笠原忠知が,45年(正保2)からは松平(能見)氏が3万2000石の城下町として経営した。侍屋敷は南台と北台に設けられ,その間を流れる谷川沿いに町屋を配した。貝原益軒が〈山と谷とに有て坂多し〉(《豊国紀行》)と評した景観は,武家屋敷群と町屋・寺町が今もそのまま存続している。町は町奉行の下に宿老4名が2名ずつ輪番で運営し,補佐役として組頭,町方の田畑年貢の取立てや百姓の監督役として町庄屋がおかれていた。はじめ西町,紺屋町,新町,中町,谷町,魚町,下町の7町で,それが16組に分けられていた。のち,富坂町,六軒町,上町,北新町,西新町が独立して1838年(天保9)には12町と増加し,下町は本町と改めた。1706年(宝永3)の家数274,89年(寛政1)家数310,人数1127,1838年家数480,人数1688と19世紀に入ってその数を増加させているのは,杵築藩特産の青表の生産の急増によるものであった。
執筆者:

杵築市西部の旧町。旧速見郡所属。人口8711(2000)。国東半島の基部,八坂川の上・中流域に位置する。山林が町域の大部分を占め,中央部を東流する八坂川沿いに水田が開ける。JR日豊本線,国道10号線(豊前街道)も八坂川に沿って走っている。中心の中山香は豊前街道の市場町として,立石は陣屋町として発達した。鶴成(つるなり)と馬上(ばじよう)は近世に金の採掘でにぎわった。現在は農業中心の町で,米作,畜産のほか,キュウリ,テッポウユリ,シイタケの栽培も盛んである。近年弱電関係の工場などが進出している。国東仏教文化の遺跡が多く,西明寺境内の石造三重塔や泉福寺跡の石造宝塔などがある。山浦の石風呂は国の重要民俗文化財で,南北朝時代につくられたとみられている。蒸し風呂の一種で,床に薬草をしき,その湯気にあたった。
執筆者:

杵築 (きづき)

出雲国(島根県)の地名。出雲大社の門前町。地名由来は《出雲国風土記》の神門(かんど)郡杵築郷の条に記してある所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の宮処を築いたことによる。大社所在地が杵築宮内村であり,出雲国造家をはじめとする社家屋敷が密集していた。古代からの大社神領で,中世には杵築浦など十二郷七浦がその範囲とされ,江戸期も国造家代官が支配するところであった。独特の神事や民俗行事が保存されているほか,国造家の庇護を受けて国学,和歌,文芸,芸能も盛んで,江戸期には〈杵築文学〉の名があった。1873年宮内村ほか7ヵ村が合併して杵築村をつくり,戸数1862,社29,寺15,人口7854。その後,分村・合併をへて1925年大社町となり,2005年出雲市に含まれるようになった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「杵築」の意味・わかりやすい解説

杵築
きづき

島根県中北部、出雲(いずも)市の一地区。旧杵築町。古くから出雲大社の門前町、また市場町として栄えてきた。明治以前は、出雲大社は杵築大社といわれていた。国道431号、一畑(いちばた)電車大社線が通じる。

[編集部]

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世界大百科事典(旧版)内の杵築の言及

【大社[町]】より

…人口1万6683(1995)。《出雲国風土記》の国引き神話ゆかりの地で,大正時代まで杵築(きづき)とよばれていた。中世,杵築十二郷七浦の中心として栄えた。…

※「杵築」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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