松尾城(読み)まつおじよう

日本歴史地名大系 「松尾城」の解説

松尾城
まつおじよう

[現在地名]真田町大字長

真田氏が、小県郡の北部かん川の上流真田を本拠としていた当時築城した山城と伝えられる。

現真田町大字おさ字小別当の山城も松尾城とよばれ、天文年間(一五三二―五五)真田幸隆が海野氏とともに村上義清の攻撃を受け、上州箕輪城主長野業正のもとに去ったあと、武田晴信の招に応じて旧領真田に復帰した後に築いたとされているが、鎌倉後期に真田氏が近くの内小屋うちごやから本拠を移した時に構築したものである。山頂の本郭は東西約九〇メートル、南北約一〇メートルで、南東側大手はやや傾斜がゆるく、そのほかは急崖をなす。本郭からは上田平・依田窪・海野方面を一望でき、上田・小県地方の山城では大きい規模である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本の城がわかる事典 「松尾城」の解説

まつおじょう【松尾城〈長野県飯田市〉】

長野県飯田市にあった平山城(ひらやまじろ)。信濃守護小笠原氏の居城。沢川と毛賀沢川に挟まれた河岸段丘に建つ連郭式の城郭で、東から本郭(本丸)、二ノ郭(二の丸)、三ノ郭(三の丸)が配置されていた。松尾城は、室町時代に信濃守護だった小笠原氏によって築かれたが、小笠原長基の子の長秀が惣領家の深志(府中)小笠原氏を継ぎ、弟の政康がこの城に拠って松尾小笠原氏を興した。その後、深志(府中)小笠原氏、松尾小笠原氏、さらに、松尾小笠原氏の分家の鈴岡小笠原氏が三つどもえになって、小笠原氏の惣領職と信濃守護の地位を争った。この争いは深志(府中)小笠原氏が制し、小笠原氏を統一したが、武田晴信(武田信玄)が1554年(天文23)の伊那侵攻で、城主の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏に臣従した。信嶺はその後、織田信長が甲州を攻めた際に降伏し、本能寺の変の後、徳川家康に従い、徳川家の家臣となった。信嶺は豊臣秀吉によって家康が関東に位封された際、武蔵国の本庄城へ1万石の大名として国替えになり、それに伴い松尾城は廃城となった。現在、城跡(本丸・二の丸)が松尾鈴岡公園(城址公園)として整備され、曲輪(くるわ)・空堀・竪堀などの遺構が残されている。なお、鈴岡小笠原氏の居城だった鈴岡城が松尾城とは毛賀沢川を挟んだ向かい側にある。JR飯田線毛賀駅から徒歩約15分。

まつおじょう【松尾城〈長野県真田町〉】

⇒真田本城(さなだほんじょう)

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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