松尾多勢子(読み)まつおたせこ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松尾多勢子」の意味・わかりやすい解説

松尾多勢子
まつおたせこ
(1811―1894)

幕末尊王攘夷(じょうい)の運動家。信州伊那(いな)郡山本村(長野県飯田(いいだ)市)の豪農竹村家に生まれ、供野(ともの)村(同豊丘(とよおか)村)名主製糸業を営む松尾佐次右衛門(さじえもん)(淳斎(じゅんさい))に嫁ぎ、伊那谷で平田派系の国学、歌道を学んだ。1862年(文久2)52歳にして単身、京都に上り、久坂玄瑞(くさかげんずい)、品川弥次郎(やじろう)、藤本鉄石(てっせき)らの志士と交流し、岩倉具視(ともみ)の信任をも得た。翌63年、等持(とうじ)院木像梟首(きょうしゅ)事件に関係し、また天誅(てんちゅう)組の志士を保護して幕吏に疑われ、長州藩邸に逃れた。その後、帰郷して志士を援助したが、68年(明治1)ふたたび上京し、岩倉家の「女参事」とよばれて仕え、69年、帰郷して農事に戻り、余生を送った。明治27年6月10日没、84歳。

[井上勝生]

『市村咸人著『松尾多勢子』(1930・信濃郷土資料普及会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「松尾多勢子」の意味・わかりやすい解説

松尾多勢子 (まつおたせこ)
生没年:1811-94(文化8-明治27)

幕末・維新期の勤王家。信州伊那郡山本村竹村常盈の娘。19歳で同郡伴野村松尾淳斎と結婚。国学,和歌を学び,1862年(文久2)単身京都に出て尊攘派公卿,志士と交流。尊王運動に奔走したが,翌年等持院足利氏木像梟首事件に関係し,長州に逃れた。のち郷里に帰り,天誅組挙兵水戸天狗党の伊那通過に協力。1868年(明治1)岩倉具視に仕えたが,69年帰郷,農業に専念した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松尾多勢子」の意味・わかりやすい解説

松尾多勢子
まつおたせこ

[生]文化8(1811).5. 信濃
[没]1894.6.10. 信濃
幕末維新期の女性尊攘派志士。竹村常盈の娘。 19歳で松尾淳斎と結婚。国学や和歌を学び,文久2 (1862) 年8月単身京都に出て,尊攘派の公卿や志士と交際,同3年尊攘派の京都等持院足利氏木像梟首事件に連座し,長州に逃れた。天誅組の挙兵,水戸の天狗党の武田耕雲斎らの伊那通過に協力 (→天狗党の乱 ) 。明治1 (68) 年東京で岩倉具視に仕えたが,のち帰郷し農業に従事した。

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朝日日本歴史人物事典 「松尾多勢子」の解説

松尾多勢子

没年:明治27.6.10(1894)
生年:文化8.5.25(1811.7.15)
維新期の勤王家。信濃国伊那郡山本村の名主竹村常盈の長女。19歳で近郷の名主松尾佐次右衛門(淳斎)と結婚。飯田に住む岩崎長世の勤王論に傾倒して51歳で平田派の門下となる。文久2(1862)年,6男4女を育て上げ隠居の身であった多勢子は52歳で上洛,「信州からきた歌詠み婆さん」として多くの公卿や志士たちと交わり,岩倉具視を探索して天誅のリストから外させるなど,探索,連絡の役を巧みに果たした。翌年2月,平田一派の関係した京都等持院足利三代木像梟首事件後に帰郷し,相楽総三など頼ってくる志士たちを保護した。

(大谷泰子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松尾多勢子」の解説

松尾多勢子 まつお-たせこ

1811-1894 幕末-明治時代の国学者。
文化8年5月25日生まれ。信濃(しなの)(長野県)伊那郡山本村の豪農竹村常盈の長女。松尾淳斎の妻。国学,和歌をまなび,文久2年52歳で京都にでて,公卿(くぎょう),女官,尊攘(そんじょう)運動家とまじわり,その連絡や庇護につとめた。のち岩倉具視(ともみ)につかえ,同家の女参事とよばれた。明治2年帰郷。明治27年6月10日死去。84歳。

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