松山(岡山)(読み)まつやま

百科事典マイペディア 「松山(岡山)」の意味・わかりやすい解説

松山(岡山)【まつやま】

備中国上房(じょうぼう)郡にあった城下町。現在の岡山県高梁(たかはし)市の市街地にあたる。北方にそびえる臥牛(がぎゅう)山(460m)に中世以来の松山城があり,南麓に城主の居館〈御根(おね)小屋〉があった。城下松山はこの御根小屋を中心に,江戸時代初頭に備中国奉行小堀新助(正次)・作助(政一,遠州)父子によって建設が始められ,次いで松山藩主池田氏(6万5000石),同水谷氏(5万石)によって整備された。1693年水谷氏断絶後は安藤氏(6万5000石),石川氏(6万石),板倉氏(5万石)の城下町として栄え,備中の政治・経済・文化の中心地であった。城下の町人町は6町(元和年間成立の本町・新町・下町・鍛冶町,寛文年間成立の南町,貞享年間成立の東町)からなっていたが,本町・新町・下町・鍛冶町は地子免除,南町は一部年貢地,東町はすべて年貢地という違いがあり,東町を除く5町を〈五町の町〉と呼んだ。1746年には6町合わせて家数711・竈数1172・人数3413。町人町のうち最も栄えたのは町裏に松山河岸をもつ本町で,各種問屋が集中していた。町人町は町奉行支配下にあり,町役人は〈五町の町〉全体の支配に当たる大年寄五穀の相場を取り調べ書き上げる目代のほか,各町に年寄・五人組頭が置かれていた。1869年松山藩は高梁藩と改称し,それにともない城下の総名も高梁と変わった。廃藩置県後の高梁は旧家中屋敷地(江戸時代には丁と呼ばれた)を含め25町で構成され,1889年高梁町となり,1954年高梁町と近隣8ヵ村が合併して高梁市となる。松山城天守閣の現存する山城としては日本で最高所にある。1936年国指定史跡となり,翌年天守閣と二重櫓が国宝に指定された(現在は国指定重要文化財)。

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