松山事件(読み)まつやまじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松山事件」の意味・わかりやすい解説

松山事件
まつやまじけん

1955年(昭和30)10月18日未明、宮城県志田(しだ)郡松山町(現、大崎市)で、子供を含む一家4人が殺害された放火殺人事件。隣町に住む斎藤幸夫(ゆきお)(当時24歳)が、強盗殺人、非現住建造物等放火で死刑判決を受けたが、その後の再審で無罪となった。

[江川紹子 2017年3月21日]

事件発生~死刑判決

1955年10月18日午前3時50分ごろ、野菜を出荷するトラックの助手席に乗っていた男性が、火災を発見。男性の知らせを受けた近隣住民が消火活動を行ったが、火元の農家は全焼した。焼け跡から世帯主の男性(53歳)と妻(42歳)、四女(9歳)、長男(6歳)の遺体が発見され、いずれも頭部に鉈(なた)様の刃物で切りつけられた痕(あと)があった。

 宮城県警は、本部長の総指揮の下に、総員65名の特別捜査本部を編成し、古川警察署松山町巡査派出所に本部を設置した。殺害手段が残虐なこと、被害者の男性は零細農家をしながら日雇い労働で暮らしていること、その妻に異性関係の風評があったことなどから、痴情または怨恨(えんこん)の線が有力とされた。ただ、被害者が家の増築工事に着手していることから小金を貯めているとの風評もあり、物盗りの線も捨てきれずにいた。

 1955年11月25日に行われた捜査本部の検討会では、捜査員のアンケートや無記名投票などが行われ、痴情による犯行との見方が多数を占めた。被害者(妻)と関係があった容疑者の名前があげられる一方、物盗り説の容疑者として、斎藤の名前もあがった。斎藤は、勤勉な家族のなかにいながら、仕事に身が入らず、家の米を持ち出して売り払い、遊興費にあてているなどの行動で、素行不良者とみられていた。検討会は、検挙は慎重に行うと結論づけたが、直後に行われた警察幹部による打合せで、斎藤を別件容疑で逮捕して取り調べる方針が決定された。

 斎藤は1955年12月2日、知人を殴って全治10日のけがを負わせた容疑で逮捕され、同月6日に本件に関する犯行を自白。同月8日、本件で再逮捕された。

 捜査の途中から否認に転じた斎藤は、裁判では一貫して無実を訴えた。しかし、仙台地裁古川支部は1957年10月29日、斎藤に死刑を言い渡した。

 判決の事実認定は次の通り。被告人は遊興費に窮し、結婚を望んだ女性に前借金があると知って金銭入手に苦慮していた。製材業の実家で被害者(妻)が材木を買っていたのを思い出し、家の増築工事をするなら2、3万円の金はあるに違いないから盗みだそうと考え、被害者宅に赴いた。世帯主の男性とは顔見知りなので、いっそのこと一家皆殺しにして金を盗ろうと考え、風呂場(ふろば)の壁に立てかけてあった薪(まき)割りを持って寝室に押し入り、枕を並べて寝ていた4人の頭を順次切りつけて殺害。たんすを物色したが現金はみつからず、証拠を隠滅するために家に放火した。

 斎藤は上訴したが、仙台高裁は1959年5月26日に控訴棄却の判決を、最高裁が1960年11月1日に上告棄却の判決を下し、死刑が確定した。

[江川紹子 2017年3月21日]

再審請求審

斎藤は1961年3月30日、仙台地裁古川支部に再審請求をしたが、1964年4月30日に棄却された。さらに1966年5月13日に仙台高裁が即時抗告を棄却し、1969年5月27日に最高裁が特別抗告を棄却して、第一次再審請求は終わった。

 その直後の1969年6月7日、斎藤は第二次再審請求を行ったが、仙台地裁古川支部は1971年10月26日にこれを棄却した。同支部は、弁護側が請求した証人4人の取調べを決定し、3人は終了したが、残る鑑定証人1人が期日の延期を申し出たことから、予定されていた尋問期日を取り消し、弁護人の再度の期日指定の申立てには何の回答もしないまま棄却決定を出した。

 これに対し弁護側は即時抗告し、「裁判所が予断と偏見から審理不尽の違法を犯した」などと厳しく批判した。

 仙台高裁は1973年9月18日、弁護側が提出していた新証拠の評価には踏み込まず、地裁支部の手続きは弁護側が証人尋問をふまえて意見を述べる機会を奪うもので、刑事訴訟規則に違反するとして、仙台地裁に審理を差し戻す決定をした。同決定は、再審制度は「個々の裁判の事実認定の誤りを是正し、有罪の言い渡しを受けた者を救済することを目的とする」と明記し、地裁支部の訴訟手続きは、再審制度の存在理由・目的に反する違反であり、審理を尽くさないで決定をしたと批判した。

 この決定を受けて、仙台地裁が改めて検察、弁護側双方が請求した証拠を取り調べ、証人尋問を行ったほか、検察側にこれまで裁判所に提出されていない「不提出記録」の開示を勧告。検察側は363点の証拠を開示した。

 おもな争点は、(1)斎藤の自宅から押収された掛けぶとんの襟当(えりあて)に付着した血痕(けっこん)の意味、(2)事件当夜に斎藤が着ていて、自白では「触るとヌラヌラした」ほど大量の血液が付着したはずのジャンパーズボンから血痕が検出されないことの意味であり、それらを踏まえて自白の真実性が争われた。

 捜査段階の自白調書では、犯行後の斎藤は返り血を頭に浴びたまま帰宅して寝た、とされている。確定判決は、(1)の襟当には細かい血痕が80個以上付着しており、被害者と同じA型とB型であるとの法医学鑑定から、「自白の大綱が科学的に、ほとんど決定的に裏づけられている」とし、有罪判断の根拠としていた。また、(2)については、二度にわたって洗濯をしたので、血痕が検出されなくても問題はない、としていた。

 仙台地裁は1979年12月6日、弁護側の新鑑定を踏まえ、(1)についての旧鑑定の証拠価値は著しく減弱し、(2)のジャンパー・ズボンは当初から血液の付着がなかった蓋然(がいぜん)性が高いとし、自白には虚偽が介在し、全体の真実性に疑いを入れるべき事情がある――として、再審開始を決定した。

 検察側が即時抗告したが、仙台高裁は1983年1月31日、(1)については旧鑑定の証拠価値を認めながらも、(2)のジャンパー・ズボンには血痕が付着していなかった蓋然性が高いとする新鑑定には明白性があるとして、抗告を棄却。検察側は特別抗告せず、再審開始が決まった。

[江川紹子 2017年3月21日]

再審

1983年7月12日に仙台地裁で始まった再審では、襟当の血痕についての鑑定証人の尋問などのほか、現場の検証も行われた。

 同地裁は1984年7月11日、斎藤を無罪とする判決を言い渡し、身柄の拘置の執行停止を決定した。これにより、斎藤は自由の身となった。

 再審判決では、ふとん襟当について、法医学者の鑑定のほか、再審請求の過程で開示された、宮城県警鑑識課技師の鑑定書と証言を重視。ふとんと襟当は、東北大学の法医学教室に運ばれた後、一度同技師の元に移されていたが、技師は鑑定書に「布団の裏には人血は付着していない」と記していた。さらに襟当についても、「(斑痕は)10個以下しかついていなかった」「(80以上とは)夢にも思わなかった」などと証言している。その後、ふとんと襟当は大学に戻され、大量の血痕の付着を認める鑑定書が作成された。

 判決はこの経緯を詳述し、「血痕群はそれ(=鑑識課技師の鑑定)以後に付着されたとの推論を容れることは可能である」として、捜査の過程で人為的に証拠に手が加えられた疑いに言及した。また、大学と県警鑑識課による二重の鑑定が行われていた事実が「長年にわたって事実上秘匿された」と指摘し、警察・検察の真相解明に対する消極的な姿勢を批判した。

 同判決は、ほかにも「初動捜査において、嫌疑十分とはいえない被告人を捜査員が物盗り犯人との見込みをつけて別件逮捕したことにはじまり、見込みに沿う自白を獲得したものの、容疑に関連するとされた諸事実は、客観的証拠によればいずれも関連性に乏しいかあるいはその裏づけが不十分」など、随所で捜査に対する厳しい指摘を行っている。

 自白に至った経緯について、斎藤は、留置場の同房者から「ここに来たらやらないことでもやったことにして早く出たほうがよい。裁判のときに本当のことをいうんだ」と助言されたことがきっかけであったと述べている。

 再審請求の過程で、この同房者が留置場での斎藤の言動を毎日細かく捜査員に報告していたことが明らかになった。再審判決は、同房者が「本事件について捜査員に協力して被告人に自白させようとしていた疑いがあり」と指摘し、斎藤の説明には「十分根拠がある」と認めた。

 本件では、日本弁護士連合会の支援や市民による支援団体の活動のほか、斎藤の母ヒデが連日、仙台の街角に「無実の息子を助けてください」と書いた襷(たすき)をかけて立ち、息子の再審を訴えた。斎藤は、釈放されると真っ先にヒデのもとに駆け寄って肩を抱き、支援者に「ただいま死刑台から生還して参りました」と報告。その様子は大きく報道された。

 検察は控訴せず、無罪が確定した。死刑囚の再審無罪は免田(めんだ)事件、財田川(さいたがわ)事件に続き3件目。

[江川紹子 2017年3月21日]

国家賠償訴訟

無罪確定後、斎藤には拘束されていた期間の刑事補償として7516万8000円が支払われた。斎藤とヒデは、いつ執行されるかわからない死刑への恐怖にさらされる極限的な精神的苦痛を長期間味わったなどとして、宮城県、国に慰謝料や弁護士費用など計1億4300万円を求める国家賠償請求訴訟を起こした。

 原告は、(1)警察は別件逮捕や無理な取調べで虚偽の自白をさせ、ふとんの襟当の血痕をめぐって捜査員が証拠を捏造(ねつぞう)するなどの違法行為があった、(2)検察官の起訴や重要な証拠を隠したまま行った訴訟活動は違法である、(3)予断と偏見、不合理な判断で有罪とした裁判所の審理判断には違法性がある――などと主張した。

 しかし、仙台地裁は1991年(平成3)7月31日、捜査、公訴提起、その後の訴訟活動、裁判のいずれにも違法性はなかったとして、請求を棄却した。ふとん襟当の血痕については、捜査の経緯に「明らかでない点が多々認められる」としながら、「なんらかの工作が行われたと推認するのは、飛躍がある」とし、証拠の捏造説を退けた。また、裁判所の違法性を認めるのは「裁判官が違法または不当な目的をもって裁判をしたなど、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認めうるような特別の事情がある場合」に限られるとした。

 原告側は上訴したが、仙台高裁は2000年(平成12)3月16日に控訴を棄却し、最高裁が2001年12月20日に上告を棄却して終結した。

 捜査に関して、刑事裁判で認められた認定が、民事裁判で覆されるという状況に、法学者からも疑問を呈する声があがった。

 斎藤は、死刑囚として長年拘置されたため、国民年金に入れず、晩年は無年金で生活保護を受給。2006年7月4日、75歳で死亡した。

[江川紹子 2017年3月21日]

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