松本良順(読み)まつもとりょうじゅん

精選版 日本国語大辞典 「松本良順」の意味・読み・例文・類語

まつもと‐りょうじゅん【松本良順】

幕末から明治の西洋医学者。下総国の生まれ。幕府出仕し、長崎で蘭医ポンペ師事江戸に帰って医学所頭取となる。維新後、軍医制度の制定尽力、明治六年(一八七三)初代陸軍軍医総監に就任した。天保三~明治四〇年(一八三二‐一九〇七

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デジタル大辞泉 「松本良順」の意味・読み・例文・類語

まつもと‐りょうじゅん〔‐リヤウジユン〕【松本良順】

[1832~1907]西洋医学者。江戸の人。あざな子良。号は蘭疇らんちゅう佐藤泰然次男幕命により長崎でポンペに学び、江戸に戻ってから医学所頭取。のち明治新政府の初代陸軍軍医総監を務めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松本良順」の意味・わかりやすい解説

松本良順
まつもとりょうじゅん
(1832―1907)

幕末・明治時代の医家。下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉藩医佐藤泰然(たいぜん)の二男として生まれ、幼名は順之助、名は良順、のち順に改め、蘭疇(らんちゅう)と号した。幕府医官の松本良甫(りょうほ)(1806―1877)の養子となり改姓した。1857年(安政4)幕命で長崎に行き、ポンペの医学伝習生の責任者となって長崎養生所・医学所の運営に尽力した。1862年(文久2)江戸に帰り、幕府の医学所2代目頭取緒方洪庵(おがたこうあん)を補佐し、洪庵没後3代目頭取となって、ポンペ直伝の近代医学教育法を導入した。戊辰(ぼしん)戦争では幕軍に参加、会津に軍陣病院を設けて戦傷病者の治療を行った。戦後は明治政府に捕らえられ禁錮の身となったが、1869年(明治2)釈放され、早稲田(わせだ)に私立病院蘭疇医院を建て、教育と診療にあたった。野にあること数年、懇請されて兵部省に出仕し、軍医寮を創設(1871)、陸海軍が分かれたあとは陸軍軍医部の編成に尽力し、初代陸軍軍医総監(1873)となった。

[宗田 一]

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改訂新版 世界大百科事典 「松本良順」の意味・わかりやすい解説

松本良順 (まつもとりょうじゅん)
生没年:1832-1907(天保3-明治40)

幕府の医官,日本の陸軍軍医制度の確立者。のちに松本順と称する。江戸で生まれる。蘭方医佐藤泰然の次男で,幕府の奥医師松本良甫の養子となる。号は蘭疇(らんじゆ)。坪井信道,竹内玄同らから蘭学を修め,1857年(安政4)幕命で長崎に行き,ポンペに師事,彼に協力して日本最初の洋式病院である長崎養生所を開設した。62年(文久2),江戸に帰り,緒方洪庵の死のあとをうけて医学所頭取となる(医学所ははじめ西洋医学所と称したが,緒方洪庵頭取のとき医学所と改称)。将軍家茂・慶喜の侍医を歴任。戊辰戦争で会津まで行ったが,幕軍の敗北で横浜で捕らえられる。まもなく自由の身となり,70年(明治3)早稲田に私立の蘭疇医院を設立した。翌年陸軍最初の軍医頭となり,日本の陸軍の医療体系の確立に貢献。73年初代の陸軍軍医総監となった。貴族院議員,男爵。牛乳の飲用や海水浴の奨励など,民間の衛生にも意を用いた。著書に《養生法》などがある。
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百科事典マイペディア 「松本良順」の意味・わかりやすい解説

松本良順【まつもとりょうじゅん】

幕末・明治の医学者。1871年順と改名,号は蘭疇(らんちゅう)。佐藤泰然の次男,幕府の医官松本良甫の養子。1857年長崎でポンペに学び,1863年江戸の医学所頭取となる。戊辰(ぼしん)戦争で東北軍に属し罪を得たが,許され,のち兵部省に出仕,軍医制度の創設に貢献,1902年男爵。
→関連項目大磯[町]海水浴西洋医学所

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松本良順」の意味・わかりやすい解説

松本良順
まつもとりょうじゅん

[生]天保3(1832).6.16. 江戸
[没]1907.3.12. 東京
医師。佐藤泰然の次男として生れ,のち幕府医官松本良甫の養子となる。安政4 (1857) 年幕命により長崎に留学,蘭医 J.ポンペについて西洋医術を学び,文久1 (61) 年に創立した長崎養生所でポンペを助けて教育と臨床にあたった。同3年6月江戸に帰り,緒方洪庵の跡を継いで幕府の西洋医学所頭取となった。維新の戦いには幕軍方に投じ,官軍に捕われて明治2 (69) 年に釈放された。翌年,早稲田に蘭疇医院を開き治療と教育を行なったが,軍医制度発足にあたり山県有朋の要請で兵部省に出仕。 1873年初代陸軍軍医総監,のち貴族院議員となり,男爵を授けられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松本良順」の解説

松本良順 まつもと-りょうじゅん

松本順(まつもと-じゅん)

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世界大百科事典(旧版)内の松本良順の言及

【医学】より

… 幕府は西欧軍事技術とともに軍陣医学技術を導入させるべく,長崎に海軍伝習所とともに,医学の教養施設をつくった。医学については,オランダより招聘(しようへい)した軍医ポンペを師とし,日本側は,幕臣松本良順をはじめ各藩より選択されたものが学生となって,初めて西欧式の系統だった医学教育がおこなわれた。とくに臨床実習のために,小島という場所に西欧風の病院を建築しておこなうなど,本格的である。…

【大磯[町]】より

…江戸時代は東海道の宿駅として栄えた。1885年松本良順により照ヶ崎海岸に日本最初の海水浴場が開かれて以来,温暖な景勝地として別荘を営むものが多く,伊藤博文の滄浪閣(そうろうかく),山県有朋の小淘(こゆるぎ)庵などが著名で,第2次世界大戦後吉田茂も居住した。西行の歌で知られる鴫立沢(しぎたつさわ),島崎藤村の墓のある地福寺,高田保ゆかりの高田公園などがある。…

【海水浴】より

…避暑,レクリエーションなどを目的として海浜で行われる水浴。海水による沐浴(もくよく)の歴史は古く,旧約聖書にエジプト人の沐浴の記録があるが,18世紀の中ごろ,イギリスの医師R.ラッセルが,海浜の空気を呼吸し,海水に浸り,海水を飲むことの医療的効果を唱え,ブライトンの海岸に患者を集めて実行したのが近代の海水浴sea bathingの始まりとされる。その後しだいに医療目的を離れ,行楽娯楽として各地の海浜で盛んになった。…

【西洋医学所】より

…万延1年(60)10月幕府の直轄となり種痘所と改称,翌年西洋医学所と改称されて大槻俊斎が初代頭取となり,教授,解剖,種痘の3科が発足した。第2代頭取の緒方洪庵のときに医学所と改称,第3代頭取松本良順に至って学制がようやく整ったが,戊辰戦争で閉鎖された。維新後68年(明治1)6月江戸鎮台府により復活され,下谷和泉橋通の旧藤堂藩邸の仮病院と合併,旧幕府の医学館とともに東京府,鎮将府,軍務官など所管を数転し,69年6月大学校所管となり,大学東校,東校,第一大学区医学校などの改称を経て,現在の東京大学医学部へとつながった。…

【弾左衛門】より

… しかしながら,過酷な身分的差別に対する被差別部落住民の不満は,すでに集中的に高まってきており,幕府・諸藩の意に反する行動に出る人々も目だっていたし,そのうえ,〈えた・非人〉の人数や実力に着眼して特別の軍隊を編成する藩(長州藩)や,江戸市中の攪乱工作に利用しようとして弾左衛門に誘いをかける藩(薩摩藩)など,倒幕をめざす諸藩の動きもみられたから,幕府としても弾左衛門の志向に神経を立てざるをえなくなった。弾左衛門はみずからの身分呼称の〈えた〉を〈醜名〉とみて深く恥じており,その除去,すなわち身分の格上げを願ってやまなかったから,将軍家侍医松本良順をつうじて〈醜名除去〉を請願するにいたった。この件は政情多端のなかで一時紛れはしたが,大政奉還・王政復古(1867)のあとに起こった鳥羽・伏見の戦(1868年1月)の直後,第15代将軍徳川慶喜の命により,長州征伐での功績を理由にしてようやく実現し,〈えた〉身分から〈平人(へいじん)(平民)〉身分に転じ,あわせて弾内記(のち直樹)と改名することも許されて〈海陸軍付病院御用〉を申し付けられ,医学所頭取の松本良順の配下に入れられた。…

【病院】より

…これが私立病院である。こうした私立病院で初期のものとして有名なのは,長崎養生所出身の幕府医官松本良順が1870年(明治3)東京に設けた蘭疇(らんちゆう)医院,ドイツ帰りの佐藤尚中が72年同じく東京に設けた博愛社医院(後,順天堂と改称)などがある。もっとも87年ころまでは私立病院よりは公立病院のほうが多い。…

※「松本良順」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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