松本(読み)マツモト

デジタル大辞泉 「松本」の意味・読み・例文・類語

まつもと【松本】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「松本」姓の人物
松本奎堂まつもとけいどう
松本幸四郎まつもとこうしろう
松本治一郎まつもとじいちろう
松本竣介まつもとしゅんすけ
松本清張まつもとせいちょう
松本まつもとたかし
松本滝蔵まつもとたきぞう
松本長まつもとながし
松本良順まつもとりょうじゅん
松本零士まつもとれいじ

まつもと【松本】[地名]

長野県中部の市。松本盆地の商工業の中心。電機・食品・繊維工業などが行われる。古くは信濃国府の地。近世は石川・戸田氏らの城下町。松本城旧開智学校浅間あさま温泉がある。東部の美ヶ原、西部の上高地かみこうちなど観光資源が豊富。平成17年(2005)に近隣4村を、平成22年(2010)に波田町を編入。人口24.3万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「松本」の意味・読み・例文・類語

まつ‐もと【松本】

〘名〙 ナデシコ科多年草。九州に自生し、また、観賞用に庭園などに栽培されている。高さ三〇~九〇センチメートル。葉は卵状長楕円形で基部は茎を抱き対生する。葉柄はない。六~八月、茎頂に径三~五センチメートルの五弁花が咲く。花弁は浅く二裂、縁は不規則な鋸歯(きょし)状で色は朱紅・白・赤白など。花の形が役者の松本幸四郎の紋所に似ているところからこの名があるともいう。漢名に剪春羅を当てるが誤用。まつもとせんのう。まつもとせんのうげ。まつもとせん。《季・春》 〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕

まつもと【松本】

[一] 長野県中央部の地名。古代、信濃国の国府所在地。江戸時代は戸田氏六万石の城下町。明治初期に筑摩県県庁所在地。第二次世界大戦後は機械・乳製品などの工業都市となる。北アルプス・美ケ原高原への観光基地。明治四〇年(一九〇七)市制。
[二] 滋賀県大津市の地名。東海道に沿い、江戸時代は渡船場として栄えた。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「松本」の意味・わかりやすい解説

松本[市] (まつもと)

長野県中西部の市。2005年4月旧松本市が梓川(あずさがわ),安曇(あずみ),四賀(しが),奈川(ながわ)の4村を編入,10年3月波田(はた)町を編入して成立した。人口24万3037(2010)。

松本市中北部の旧村。旧南安曇郡所属。人口1万0162(2000)。松本盆地南西部を占め,東は旧松本市に接する。東部は南~東縁を流れる梓川の扇状地が広がり,西部は標高2000m前後の飛驒山脈東縁の山地である。古くから開けた地で縄文中・後期の荒海渡遺跡など遺跡が多い。中世には西牧郷といわれ,西牧(滋野)氏の一族が支配し,金松寺山の東麓には西牧氏館跡がある。東部の平地では稲作,灌漑施設の整備が進んだ山麓地帯ではリンゴ,桃,ブドウなどの果樹や蔬菜栽培が行われている。人口は昭和30~40年代は減少傾向にあったが,50年代以降は増加に転じ,旧松本市などへの通勤者が増加している。

松本市西部の旧村。旧南安曇郡所属。現地標音では〈あづみ〉。人口2686(2000)。旧松本市の西方,梓川の中・上流域に位置する。飛驒山脈中の村で,村域のほとんどを山林・原野が占め,また半分以上が中部山岳国立公園に指定されている。集落は梓川沿いと乗鞍高原に点在し,国道158号線などにより結ばれる。島々(しましま)をはじめとする集落は,江戸時代には松本藩の藩有林における杣業,製炭業を生業としていたが,大正期以降,村内各所に発電所が建設され,発電所従事者が増えた。1969-70年の奈川渡ダム,水殿ダム,稲核(いねこき)ダムの完成とともに道路整備が進展し,観光開発が進んだ。上高地,乗鞍高原,白骨温泉などの景勝地,槍ヶ岳穂高岳乗鞍岳など〈日本の尾根〉と呼ばれる高山の集まった日本有数の山岳観光地である。耕地が少なく,高冷地であるため農業は振るわない。上高地は特別名勝,特別天然記念物に,白骨温泉の噴湯丘,球状石灰石は特別天然記念物に指定されている。1997年国道158号線安房(あぼう)トンネルが開通し,岐阜県側との通年往来が可能となった。

松本市北東部の旧村。旧東筑摩郡所属。人口6108(2000)。筑摩山地に位置する山村で,総面積の約80%を山林・原野が占める。中央を西流する犀(さい)川支流の会田川と保福寺川沿いに水田が開けるほか,山間傾斜地も耕地化されている。中心集落の会田は江戸時代,北国西脇往還(善光寺道)の宿駅として栄え,1902年の篠ノ井線開通までは交通の要地であった。主産業は農業で,近年稲作,養蚕に代わって,養鶏,養豚,酪農が伸びている。国道143号線が通り,松本,上田方面に通じる。四賀化石館が代表的な文化施設で,穴沢クジラ化石は県天然記念物に指定。

松本市南西部の旧村。旧南安曇郡所属。人口1107(2000)。梓川の支流奈川の流域を占め,村域の9割が山林・原野である。奈川沿いに小集落があるが,耕地はきわめて少ない。野麦峠を越える野麦街道が飛驒高山と松本を結び,江戸時代から明治末期まで牛による荷運びを業とする者があり,奈川の牛稼と呼ばれた。また飛驒を出て岡谷の製糸工場で働く女工の通る道でもあった。街道は中央本線の開通後はさびれた。1969年奈川渡ダムが完成し,人造湖の梓湖ができた。奈川温泉(重曹泉,46℃),野麦峠スキー場があり,観光開発がすすめられている。

松本市中南部の旧町。旧東筑摩郡所属。1973年町制。人口1万4914(2005)。松本盆地の西部,梓川の南岸に位置し,北西から北,東は旧松本市に接する。南西部は鉢盛山(2446m)まで山地が続くが,北東部には梓川の開析扇状地が広がり,明治以降に開拓された水田と畑が多い。米作やリンゴ,モモ,スイカ,ナガイモなどの栽培と畜産を中心とする農業が主産業である。松本電鉄と国道158号線が通じ,旧松本市への通勤の便がよいため農地の宅地化が急速に進み,人口が増加している。松本電鉄新島々駅周辺は北アルプスの玄関口として夏季を中心に観光客でにぎわう。波田神社境内にある坂上田村麻呂をまつる桃山時代の田村堂(重要文化財)は,明治初年に廃寺となった若沢(にやくたく)寺から移築されたものである。
執筆者:

松本市東部の旧市。1907年市制。人口20万8970(2000)。松本盆地の中心であるばかりでなく,木曾を含めた中信地方,さらに諏訪・伊那両地方を含めた中南信地方(広義の南信地方)の中心でもある。中世には信濃国守護小笠原氏の本拠地で,戦国時代から近世には,松本藩の城下町として栄えた。廃藩置県後,中南信4郡に飛驒国を加えた筑摩県の県庁が,松本城跡に置かれていた。諸河川が集まる松本は内陸交通の要衝であり,谷に沿って千国(糸魚川),野麦,伊那(三州),北国西などの諸街道が集中していた。現在でも交通の中心をなす。JR篠ノ井線,大糸線,松本電鉄の分岐点で,長野自動車道,国道19号線が通じ,市の南部には松本空港(1993年ジェット化工事完了)がある。電気機械工業や食品工業のほか家具,シラカバ細工,紬(つむぎ)などの伝統的工業もあり,松本・諏訪新産業都市の中核をなす商工業都市となっている。農業は稲作とリンゴ,ブドウなどの果樹栽培が主である。松本城,旧開智学校本館,信州大学などがあり,1月10~11日の飴市,8月中旬の青山様などの民俗行事も豊かである。浅間温泉,中信高原の美ヶ原,北アルプスの上高地,乗鞍高原などへの観光基地にもなっている。
執筆者:

信濃国の城下町。古代の筑摩(豆加万(つかま))郡西端に位置し,奈良時代後期には信濃国府が小県(ちいさがた)郡から移ったため府中,信府ともいい,中世には深瀬,深志,庄内などと呼ばれた。建武新政のとき甲斐の小笠原貞宗が信濃守護として進出し,井川に館を置いた。戦国大名武田信玄の進攻により小笠原貞時は林,埴原(はいばら)などの山城を退去したが,その子貞慶(さだよし)が,武田氏の滅亡,織田信長死去の1582年(天正10)深志城を奪還し,城名を松本城と改めた。これが地名の起りである。貞慶は90年子秀政とともに関東に移り,代わって入封した石川氏が関ヶ原の戦後まで在封して,近世の城下町と松本藩の開祖となった。石川氏は現存の天守を築き,小笠原氏の開いた本町,中町,東町の三つの親町に枝町を加えた。石川氏改易後再封された小笠原氏以後歴代藩主のもとで,町制はしだいに整うが,城下町としての発展は1642年(寛永19)入封の水野氏,1725年(享保10)入封の戸田氏の治世であった。城の周辺と北側に武家屋敷,東と南に町屋敷があり,親町庄屋は町奉行の監督下に枝町庄屋を支配し,本町庄屋今井家は御使者宿,同倉科家は問屋を兼ねた。同年武家屋敷は990,町屋敷は1233(世帯数2351),町方人口8206人を数え,地子免除であったが,219軒が伝馬人足を出した。水野氏時代は自給的色彩が強かったが,戸田氏の代になって領外との商品流通も盛んとなった。中馬稼(ちゆうまかせぎ)による在方(ざいかた)商業の荷替地ともなり,1776年(安永5)の綿屋火事その他たびたびの災害にもかかわらず,1830年(天保1)ころの産物会所の開設によって在方商業の統制,絞木綿(しぼりもめん)問屋の活動,上(のぼ)せ生糸など国産の拡充がうながされ,43年の《善光寺道名所図会》に〈当国第一の都会〉と記されるような繁栄をみた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本歴史地名大系 「松本」の解説

松本
まつもと

中世における湖南の水上・陸上交通の要衝。南東の粟津あわづと同様に供御人の集住地としても知られる。真常しんじよう寺の文殊菩薩立像の永仁六年(一二九八)三月二八日背面墨書銘に「滋賀郡松本村真常寺」とある。湖岸に面した宿として戦略的に格好の位置にあったため、しばしば兵火に罹っている。建武三年(一三三六)正月一六日、北畠顕家・新田義貞の兵が、園城おんじよう寺攻めの際に「大津ノ西ノ浦、松本ノ宿」に火をかけ(「太平記」巻一五)、同年六月にも、北朝方の足利尊氏が比叡山に籠った後醍醐天皇を攻めるにあたって、その軍勢は「松本ノ東西ノ宿」および大津・園城寺の焼跡、志賀しが唐崎からさき如意によいヶ嶽にまであふれている(同書巻一七)。また正平七年(一三五二)三月には南朝方の中院具忠の軍が(「社家記録」同月一五日条)、文和四年(一三五五)正月二一日には武佐むさ(現近江八幡市の長光寺)にいた足利尊氏が京都奪還のため同寺を発して当地に至り陣を取っている(同年三月日「田代顕綱軍忠状」田代文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

動植物名よみかた辞典 普及版 「松本」の解説

松本 (マツモト)

学名:Lychnis sieboldi
植物。ナデシコ科の多年草

出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松本の言及

【信濃国】より

…木曾(吉蘇,岐蘇)は美濃国との境界が明確でなかったが,879年(元慶3)県坂山岑(現,鳥居峠)を堺と決定した。国府は当初小県郡(現,上田市)に置かれ,国分寺,国分尼寺も同所に置かれたが,平安初期に国府は筑摩郡(現,松本市)に移された。官道である東山道の道筋は幾度か変遷している。…

【長野[県]】より


[沿革]
 県域はかつての信濃国全域にあたる。江戸末期には松本藩,飯田藩,高遠(たかとお)藩,高島藩(諏訪藩),田野口藩(後に竜岡藩と改称),松代藩,須坂藩,飯山藩,岩村田藩,小諸藩上田藩の諸藩が分立しており,木曾は尾張藩領で,そのほかにも天領,旗本領,寺社領などが入り組んでいた。1868年(明治1)伊那県が置かれて,尾張藩の所管となっていた旧天領,旗本領などを支配下に置き,翌年三河県を併合(1871年額田県に編入),70年には一部を割いて中野県を設けた。…

※「松本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android