松永久秀(読み)まつながひさひで

精選版 日本国語大辞典 「松永久秀」の意味・読み・例文・類語

まつなが‐ひさひで【松永久秀】

室町後期の武将。三好長慶に仕え、大和の筒井順慶らを抑えて奈良に多聞城を築き、長慶の子義興を毒殺、長慶死後、権勢の座についた。三好三人衆とともに将軍足利義輝を自殺させ、さらには三人衆の根拠東大寺大仏殿を焼いた。信長が入京するとすぐに従ったが、のち足利義昭に与して攻められて信貴山で自殺した。永正七~天正五年(一五一〇‐七七

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デジタル大辞泉 「松永久秀」の意味・読み・例文・類語

まつなが‐ひさひで【松永久秀】

[1510~1577]戦国時代の武将。初め三好長慶に仕えたが、奈良に多聞城を築いて主家を滅ぼし、将軍足利義輝を殺して東大寺大仏殿を焼いた。織田信長の入京に際して降伏したが、のち背いて敗死。

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改訂新版 世界大百科事典 「松永久秀」の意味・わかりやすい解説

松永久秀 (まつながひさひで)
生没年:1510-77(永正7-天正5)

室町末期の武将。出生地はなぞに包まれ,阿波,山城西岡など諸説あるが,摂津五百住の土豪の出とする《陰徳太平記》の説が比較的信をおける。初め藤原氏を称し,1561年(永禄4)より源氏を称す。33-34年(天文2-3)ころ京畿の争乱の中で台頭した三好長慶(ながよし)に右筆として仕え,42年には早くも一方の部将として南山城に進駐している。実弟の長頼が軍事指揮に優れ,山城,丹波の軍事と民政を任されたのに対して,久秀は訴訟取次ぎなど文書事務に秀で,49年の長慶入京以降は幕下にあって行政実務に専念した。しかし所司代に就任したとか,実権が長慶をしのいだなどの俗説には根拠がなく,伊勢貞孝,蜷川親俊ら幕府から長慶に帰参した吏僚の作成した裁許案を長慶に取り次ぐ事務担当の域を出ていないのが真相である。53年に長慶の畿内制覇がほぼ成ると,摂津滝山城(現,神戸市)の城主に任ぜられ,西摂,播磨方面の軍政を担当したが,彼自身は在京して訴訟事務をつかさどった。59年(永禄2)大和信貴山城主に移り大和平定作戦に従事,翌年全大和を統一し62年奈良多聞山築城,数百年にわたる興福寺の大和支配を終焉させた。

 64年長慶が没すると三好三人衆とともに後嗣義継の後見となり,65年将軍足利義輝を暗殺,名実ともに三人衆政権が畿内に君臨することになった。しかし同年弟長頼が丹波に敗死し,主導権を争う三人衆と久秀の反目も激化し,この両者の争いで67年東大寺大仏殿が炎上した。68年9月美濃から入洛した織田信長に降伏し,大和一国の支配を安堵されたが,71年(元亀2)5月ひそかに武田晴信に通じて信長にそむき,73年(天正1)3月には将軍義昭とも同盟した。しかし同年7月幕府は崩壊し,11月には三好義継も河内若江城に敗死して,久秀は再び信長に帰服している。77年8月再度信貴山城に拠って信長に抗し,大坂本願寺や毛利氏と呼応したが,織田軍の猛攻の前に同年10月陥落,久秀自身は愛器〈平蜘蛛〉の茶釜を抱いて自殺した。当時有数の大都市奈良を支配し,堺の豪商とも通じて財富を蓄積し,茶道にも通じた文化人であったが,術策を振るい,キリシタン宣教師からは狡猾(こうかつ)と評されている。
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朝日日本歴史人物事典 「松永久秀」の解説

松永久秀

没年:天正5.10.10(1577.11.19)
生年:永正7(1510)
戦国時代の武将。弾正忠,弾正少弼,山城守。その出自は謎に包まれ,阿波,山城,摂津の各出自説があるが,一族の連歌師松永貞徳の記述などから山城西岡説が有力。三好長慶の被官になったのは天文10(1541)年以前と推定され,同11年10月三好軍を率いて南山城に進駐,同18年には「内者」と呼ばれ,長慶の重臣であったことがわかる。しかし軍事は弟長頼のほうが秀で,久秀が三好政権中に重きをなし得たのはむしろ長頼の力によるところが大きい。同20年7月の洛中相国寺合戦,翌々年3月の梅ケ畑合戦で細川晴元軍を撃破し,弘治2(1556)年6月摂津滝山城主。長慶の本城芥川城では,訴訟取次など奏者役を務めている。永禄2(1559)年8月大和信貴山城主となり,長く興福寺の支配下にあった大和の領国経営に着手,翌3年11月には軍事的にほぼ大和を制圧し,多聞山城を築いた。同5年3月,畠山氏に大敗し三好軍が危機に陥った際には長慶の本拠飯盛山城の守備に奔走。同年5月に畠山高政軍を河内教興寺,葉引野に大破して三好政権の中心的部将となった。 翌6年,長慶の嫡子義興が病死すると長慶の老耄に乗じて,安宅冬康を讒によって死に追い込み,以後三好政権は三好長逸ら三好三人衆と久秀が壟断するようになる。長慶が病死すると,久秀らは喪を秘したまま,将軍足利義輝を暗殺し同義栄を擁立,直後,久秀と三人衆の対立が表面化する。同10年に東大寺を焼くなど内訌で消耗,弱体化した三好政権は,翌年9月織田信長の軍事力の前に崩壊。久秀は信長に款を通じて大和一国を安堵されたが,元亀2(1571)年武田信玄に通じて信長に背き,翌年末いったん信長に降伏して再び大和支配を安堵された。天正3(1575)年多聞山城と大和守護を失うにおよび,北陸の上杉謙信を頼んで再び信長に背く。同5年10月ついに抗しきれず名器平蜘蛛の茶釜を抱いて火中に投身した。フロイスには「狡猾」と評され,梟雄の典型のように描かれるが,その伝説には誇張が多い。<参考文献>今谷明「三好・松永政権小考」(『史林』58巻3号)

(今谷明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松永久秀」の意味・わかりやすい解説

松永久秀
まつながひさひで
(1510―1577)

戦国時代の武将。山城(やましろ)国あるいは摂津国に生まれた。三好長慶(みよしながよし)の家臣で、初め右筆(ゆうひつ)として仕えた。1553年(天文22)摂津滝山(たきやま)城(神戸市中央区葺合(ふきあい)町)主を命ぜられ、八部(やたべ)・菟原(うはら)郡を支配。59年(永禄2)大和(やまと)平定のため大和信貴山(しぎさん)城(奈良県生駒(いこま)郡平群(へぐり)町)主となる。翌60年弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、幕府御供衆(おともしゅう)に列せられる。同年8月郡山(こおりやま)城(奈良県大和郡山市)を攻落したのを皮切りに、大和の諸城を次々に陥落させ、62年奈良北部に天守閣をもつ多聞山(たもんやま)城(奈良市法蓮(ほうれん)町)を造営し大和を支配した。64年長慶が死去すると、一族の三好長逸(ながゆき)・政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち)のいわゆる三好三人衆とともに長慶の養子義継(よしつぐ)を補佐、65年将軍足利義輝(あしかがよしてる)を三好三人衆らと暗殺し、義輝の実弟一乗院覚慶(後の将軍義昭(よしあき))を奈良に幽閉した。長慶の政権を継いだのは、三好義継と三好三人衆および久秀の三者の連合体であり、久秀が1人実権を握ったのではない。久秀は大和一国の戦国期権力であった。しかし、この連合も三好三人衆との内訌(ないこう)で分裂していく。66年久秀は、和泉(いずみ)・河内(かわち)・摂津の各地で三好三人衆に敗れ、67年大和に逃げ帰り、同年10月には東大寺に布陣した三好三人衆を攻撃して大仏殿を焼き払った。翌68年入京した織田信長の軍門に降(くだ)って大和一国を安堵(あんど)されるが、77年(天正5)8月信長に背き、信貴山城を攻められ、10月、子久通(ひさみち)とともに自殺した。

[矢田俊文]

『今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)』

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百科事典マイペディア 「松永久秀」の意味・わかりやすい解説

松永久秀【まつながひさひで】

戦国時代の武将。三好長慶(ながよし)に仕え,大和信貴山(しぎさん)城を本拠として活躍。長慶の死後その勢力を奪い,1565年将軍足利義輝を殺すなど専横をきわめた。1567年筒井順慶,三好三人衆と奈良に戦って東大寺大仏殿を焼き,畿内を支配したが,1568年入京した織田信長に降伏。のち信長への反抗,帰服を経て,1577年再び信長にそむいて敗死。
→関連項目朝倉義景足利義輝足利義栄下剋上筒井順慶貞徳

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松永久秀」の意味・わかりやすい解説

松永久秀
まつながひさひで

[生]永正7(1510)
[没]天正5(1577).10.10. 大和
戦国~安土桃山時代の武将。初め三好長慶に仕え,弾正忠に任じ堺代官となった。永禄2 (1559) 年奈良に入部して多聞城,信貴山城などを築き,山城の国人を追い,三好氏の家老となるに及んで勢力を伸張し,三好義継に足利義輝を殺害させ,畿内に実権をふるった。同 10年三好三人衆と戦い東大寺大仏殿を焼き,同 11年織田信長が入京してくると,これに従い,大和信貴山を安堵された。その後信長の天下統一を志向する政策に対し,足利義昭をはさんで表裏のある行動を重ねたため,天正5 (77) 年信長の攻撃にあって信貴山城で自殺した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松永久秀」の解説

松永久秀
まつながひさひで

1510~77.10.10

戦国期の武将。大和国信貴山(しぎさん)城(現,奈良県平群町)・多聞山(たもんやま)城(現,奈良市)の城主。三好長慶(ながよし)の家臣となり,1559年(永禄2)以後大和を領国とし,多聞山城に拠った。64年長慶が死ぬと三好三人衆とともに実権を握り,翌年三好政権と対立する将軍足利義輝を暗殺。しかし三人衆と不和となり抗争を続けるうち,67年には東大寺大仏殿を焼失させた。68年織田信長が入京するとこれに従ったが,71年(元亀2)武田信玄に通じて離反。73年(天正元)降伏し,多聞山城から信貴山城に移った。77年再び反信長の兵をあげたが失敗,信貴山城で自殺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松永久秀」の解説

松永久秀 まつなが-ひさひで

1510-1577 戦国-織豊時代の武将。
永正(えいしょう)7年生まれ。三好長慶(ながよし)の家老として権勢をふるい,信貴山(しぎさん)城,多聞城にあって大和(奈良県)を支配。長慶死後,将軍足利義輝(よしてる)を殺す。三好三人衆と対立し,彼らとの戦いの際,東大寺大仏殿は焼失。永禄(えいろく)11年織田信長に降伏して大和を安堵(あんど)されたが,のち信長にそむき,天正(てんしょう)5年10月10日信貴山城に火をはなって自害した。68歳。弾正少弼(だんじょうのしょうひつ),山城守。

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旺文社日本史事典 三訂版 「松永久秀」の解説

松永久秀
まつながひさひで

1510〜77
戦国時代の武将
阿波(徳島県)の人。初め三好長慶 (ながよし) に仕え家老となったが,その死後主家三好氏を滅ぼし,13代将軍足利義輝を襲い自殺させ,筒井順慶と戦って東大寺大仏殿を焼打ちした。1568年織田信長が入京すると降伏したが,のちそむき信貴山で敗死。三好長慶とともに下剋上の典型的人物といわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の松永久秀の言及

【信貴山】より

…南北朝時代からここにたびたび砦が築かれ,楠木正成も一時拠ったと伝えられる。永禄年間(1558‐70)に松永久秀は信貴山城を本拠にして畿内に覇を唱えた。織田信忠軍の攻撃を受けて落城した城郭跡は,山頂から尾根,山腹にかけて壮大な遺構をとどめている。…

【信貴山城】より

…しかし長政は41年河内太平寺の一戦に敗死し,当城も焼けおちた。ついで59年(永禄2)松永久秀が大和に入国,多聞山(たもんやま)城(現,奈良市)とともに当城に本拠をおいて,大和,河内の制圧を目ざし,当城を大規模な山城に構築した。久秀は68年織田信長に下ったものの,77年(天正5)当城に拠って信長に反し,織田信忠らの攻撃をうけ10月10日落城,久秀父子は自刃した。…

【多聞山城】より

…奈良市北部,佐保丘陵の南東隅にあった中世末期の平山城。京街道を眼下に見下ろす要地にあり,1560年(永禄3)前年から大和に入った松永久秀が,西の信貴山城とならんで構築に着手した。65年には多数の塔(櫓か)や塁保(多聞か),多くの階を重ねた家屋が建ちならび,城壁と塁保は白壁,御殿内部は彫刻,壁画,金地で飾られた豪華なものであったことなどが,当城を訪れた宣教師ルイス・アルメイダの書簡で知られる。…

【大和国】より

…なお,地域的分裂に乗じて曹洞宗や一向宗が吉野郡にはじまって南大和に流布する。 やがて16世紀半ばには,筒井氏は古市,十市,越智氏の衰退に乗じて独走勢力となったが,おりから細川氏の家老三好長慶が台頭,その家臣の堺代官松永久秀が大和をねらって信貴山(しぎさん)城を築き,1559年(永禄2)久秀は大和守護職を称して乱入,幼児の筒井藤勝(順慶)ら国衆を追って奈良に進出し,翌年にはその北郊に多聞山城を築いて居城とした。近世城郭の第1号といわれる雄壮な構築であり,4階だての多聞櫓がそびえた。…

※「松永久秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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