…これは継体天皇が越前あるいは近江から迎えられたのは,近江の息長(おきなが)氏に代表される北方勢力が,武烈天皇で断絶した〈応神王朝〉のあとをうけて,大和の王朝を簒奪したとみる説で,継体を応神5世孫としたのは,その正統性を作為したにすぎないとするものである。この説は,林屋辰三郎などによって唱えられ,ことに継体の死後,安閑・宣化という,いわば〈畿外勢力〉と,欽明に代表される〈畿内勢力〉の対立抗争があり,2王朝が一時併存したとする主張によって裏づけられた。この説をさかのぼれば,喜田貞吉らによって,継体・欽明紀の年紀の錯簡が論ぜられ,継体の没年辛亥年(531)の翌年が,欽明1年の壬子年(532)であり,安閑・宣化の在位期間はなくなるという文献批判から発しているといえよう。…
…喜田は継体紀25年条に引く《百済本記》に〈日本天皇及太子皇子俱崩薨〉とあるのを重大な政変(辛亥の変)と推定した。戦後,喜田の2朝併立論は林屋辰三郎によって,継体朝末年の磐井の乱とあわせて対朝鮮半島政策をめぐる全国的内乱状況としてとらえ直され,〈継体・欽明朝の内乱〉と呼ばれることになった。津田左右吉が記紀批判により帝紀・旧辞の成立期とみなした継体・欽明朝の時期に全国的な内乱状況を想定する林屋説はそれまでの歴史通念を破るもので,同時期に提唱された継体新王朝説とともに賛否両論をまきおこした。…
…森末の研究は,中世における散所の存在形態を明らかにするのを主眼とし,関係の史料の博捜と,考証の厳密さとにおいて比類なかったが,散所そのものの定義としては,〈一定の居所なく随所に居住せる浮浪生活者を指す〉とするにとどまり,さらに厳密な定義は,のちの研究の進展にまたねばならなかった。 太平洋戦争の終結による民主主義思想の高揚と部落解放運動の再生は,被差別部落史の研究に新気運の高まりをもたらしたが,古代・中世にわたる領域では林屋辰三郎が54年に《`山椒大夫’の原像》《散所――その発生と展開》の2論文を発表し,散所の歴史的研究に一時期を画した。とくに後者では,古代社会における身分的差別が中世社会では地域的表現をとりながら散所と河原(かわら)とに集約されたこと,散所においては地子物(じしもつ)(年貢)を免除される代りに住民の人身的隷属が強いられたこと,さらには散所の民が商人・職人の源流をなし,散所は〈座〉を中心とした商工業の形成の前提条件をなしたこと等々が提唱された。…
※「林屋辰三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
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