枚方(読み)ヒラカタ

デジタル大辞泉 「枚方」の意味・読み・例文・類語

ひらかた【枚方】

大阪府北東部の市。淀川よどがわ東岸にあり、古くから水上交通要地住宅地大学も多い。重工業や家具寝具などの製造が行われる。百済寺くだらじ跡・枚方パークがある。人口40.8万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「枚方」の意味・読み・例文・類語

ひらかた【枚方】

大阪府北東部の地名淀川の左岸にある。江戸時代京街道宿駅、淀川水運の河港として栄えた。大阪・京都の二大都市の中間にあって、住宅・工業衛星都市として急速に発展。禁野車塚遺跡、百済(くだら)寺跡、関西外国語大学などがある。昭和二二年(一九四七市制

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日本歴史地名大系 「枚方」の解説

枚方
ひらかた

枚方丘陵西端から淀川河岸にかけて、近世三矢みつやおか岡新町おかしんまち泥町どろまちなどの村域にあたる一帯をいう。平潟とも記し、淀川辺りの平らな潟に由来するという説もある(旧版「枚方市史」)。「播磨国風土記」に、同国揖保郡枚方の里は「河内の国茨田の郡の枚方の里の漢人」が移り住んだために名づけられたとある。「日本書紀」継体天皇二四年一〇月条には、病死した近江毛野臣を悼んでその妻の歌ったという「枚方(原文は「比駄」)ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る」という歌謡が載る。中世には、享禄二年(一五二九)正月、三好勝宗らに攻められた細川晴元の被官柳本賢治が、山崎やまさき(現三島郡島本町)から淀川を越え「河内枚方の道場」へ退いている(細川両家記)

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改訂新版 世界大百科事典 「枚方」の意味・わかりやすい解説

枚方[市] (ひらかた)

大阪府北東部の市。1947年市制。人口40万7978(2010)。大阪市と京都市の中間に当たり,淀川左岸に位置する。東部に生駒山地,西部に淀川低地があり,中央部には枚方丘陵が広がる。豊臣秀吉築造の淀川の文禄堤上に京街道がつくられ,1601年(慶長6)その宿駅となった。枚方宿は堤防下に街村をなし,淀川舟運の河港でもあった。1876年淀川右岸に東海道本線が開通したため衰微したが,98年に関西鉄道(現,JR片町線),1910年に京阪電鉄が開通した。大正初期に倉敷紡績などの繊維工業が立地したあと,昭和に入って陸軍造兵厰が置かれ,機械・金属工業も発達した。第2次大戦後,造兵厰跡に小松製作所が立地し,国道1号線沿いに多くの工場が進出したほか,既製服団地などの工業団地も造成された。かつて東洋一といわれた公団の香里(こうり)団地などの大規模な住宅建設に続いて,京阪本線や交野(かたの)線など鉄道沿線を中心に住宅地化が進み人口増加が著しい。市域には渡来人の氏寺といわれる百済(くだら)寺跡(特史)や片埜(かたの)神社,交野天神社などがある。
執筆者:

近世には牧方と書くことが多い。宿は岡新町,岡,三矢,泥町の4ヵ村からなり,村高は合わせて642石余である。町並みは東見付から西見付まで797間(13町17間)に及び,1788年(天明8)の調査では,家数341軒,人数1721人,そのうち本陣1,旅籠屋(はたごや)32,医師1,商職人47,東西宿端の茶屋7,馬借所1ヵ所,人足継所2ヵ所と記載されている。三矢村に問屋場,本陣があったが,脇本陣はなかったという。京街道に並んで淀川の水路を有し,伏見からの下りには舟便が利用されたため,街道筋の駄賃稼ぎが少なく,宿財政は窮乏していた。しかし船客や船頭に飲食物を売りつける〈くらわんか船〉の権利を独占しており,また旅籠屋の下女奉公人を旅客相手の私娼(飯盛女)とし,1800年(寛政12)にはその数は127人にのぼっている。この宿は幕末から近代にかけても川筋の遊興地としてにぎわいをみせた。
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