柳生氏(読み)やぎゅううじ

百科事典マイペディア 「柳生氏」の意味・わかりやすい解説

柳生氏【やぎゅううじ】

江戸時代の大和国の譜代(ふだい)大名。平安時代,現在の奈良市にあった大和国小楊生(こやぎゅう)郷(のちの柳生村)に菅原永珍(ながよし)が代官として入部したのが始まりという。戦国期に宗厳(むねよし)が自立し,柳生新陰流(しんかげりゅう)を興した。1594年徳川家康に剣術を伝授したのに始まり,のち徳川将軍家の剣術師範となる。1636年宗矩(むねのり)が1万石の大名に列し,のち1万2500石まで加増されるが,一族に所領を分割したため,宗矩の子十兵衛三厳(みつよし)は8300石の旗本(はたもと)となる。1668年三厳の弟宗冬が再び1万石の大名に列し,以後大和国添上(そえかみ)郡・山辺(やまべ)郡および山城国相楽(そうらく)郡で1万石を領有する柳生藩藩主となり,代々世襲して明治維新に至る。→柳生宗厳柳生宗矩柳生十兵衛柳生宗冬柳生流
→関連項目柳生

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改訂新版 世界大百科事典 「柳生氏」の意味・わかりやすい解説

柳生氏 (やぎゅううじ)

大和国の近世大名。徳川将軍家剣術師範として知られる。平安時代,関白藤原頼通が春日神社に神供料所として寄進した神戸四ヵ郷の一つの小楊生郷(のち柳生村)に代官として菅原永珍(ながよし)が入部したのに始まるというが,戦国時代に春日神戸代官として美作守家厳(いえよし)があり,その子の新左衛門尉宗厳(石舟斎)が柳生新陰流を起こして自立した。松永久秀に属したため筒井順慶に追われて閉居したが,1594年(文禄3)徳川家康に召されて剣法を伝授したのに始まり,1600年(慶長5)関ヶ原の戦には嗣子の宗矩(むねのり)とともに功をたて,宗矩は秀忠,家光の剣術師範となり,さらに大目付に起用され1636年(寛永13)1万石(1万2500石)の大名に列し但馬守を称した。嫡嗣子の十兵衛三厳,次男友矩,三男宗冬,四男芳徳寺義仙和尚らにその所領を分かったため,しばらく大名の列を離れたが,68年(寛文8)飛驒守宗冬が1万石の大名に復して明治維新に至った。維新後子爵
柳生流
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳生氏」の意味・わかりやすい解説

柳生氏
やぎゅううじ

大和国添上郡を中心に栄えた豪族。本姓菅原氏で道真の裔,大膳亮永家が春日社領小柳生荘を預って以来柳生氏を称したという。戦国時代末期から剣術家として知られ,7代目宗厳は上泉伊勢守より新陰流を伝授され,柳生新陰流の始祖となった。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いでは宗厳,宗矩父子が徳川家康に従い,その功により柳生の地に 2000石を与えられた。宗矩は家康,秀忠,家光の3代にわたり将軍家兵法師範をつとめ,加増されて大和柳生1万 2500石の大名となった。のち一時分知したが,寛文8 (68) 年1万石に復し,以後代々大名,兵法師範として幕末にいたる。明治にいたり子爵。

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