栃原岩陰遺跡(読み)とちばらいわかげいせき

日本歴史地名大系 「栃原岩陰遺跡」の解説

栃原岩陰遺跡
とちばらいわかげいせき

[現在地名]北相木村字栃原

千曲川の上流、標高一二〇〇メートルの北相木川右岸に立地し、八ヶ岳泥流が河川浸食によって形成された南向きの間口、奥行とも約八メートルほどの岩陰である。

昭和四〇年(一九六五)以来、十数回にわたる調査が実施された。六―七メートルに及ぶ堆積層は縄文時代草創期から早期にかけての遺物を包含し、特に人骨・獣骨・骨角器・貝類など県内では珍しい遺物が多かった。早期に伴う人骨は、成人男性三、同女性五、小児四の計一二体が検出され、小児二体は落盤による事故死、他は屈葬方式をとるなど、興味ある結果が判明し、その特徴から「北相木人」と呼称されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「栃原岩陰遺跡」の解説

とちばらいわかげいせき【栃原岩陰遺跡】


長野県南佐久郡北相木(きたあいき)村栃原にある住居跡。相木川右岸にある、小規模の3つの岩陰からなる縄文早期の洞穴住居跡。正面に御座(おぐら)山、はるか西方には八ヶ岳連峰を望む標高約960mの山間地にある。1965年(昭和40)から15回におよぶ発掘調査の結果、1987年(昭和62)に国の史跡指定された。現在は岩陰の幅、奥行き、高さがそれぞれ2~3mであるが、当時は幅、奥行きとも約8m、天井までの高さは約6mもあったと思われる。岩陰住居は南向きで日当たりがよく、水源は相木川、周囲の山野は豊かな食糧源であり、岩のひさしは風雨を避ける屋根の役を果たすなど理想的な住環境で、約1000年にわたり「北相木縄文人」によって利用されたという。八ヶ岳の火山活動により、川床が低下し、窪みが拡大して岩陰が形成され、相木川沿いには大小200もの岩陰が存在する。発掘現場には埋葬人骨や石囲いの炉が見られるが、住居利用がむずかしくなったために埋葬墓地として再利用されたと考えられる。埋葬された人骨は合計12体で、ほとんどの成人遺体は屈葬だった。また、岩陰の内部には100基を超える炉跡が発見されたが、直径50cmぐらいの河原石を円形に石囲いしたもので、大量の灰や炭が残されていた。ほかに鳥や獣の骨、土器石器など、出土品は膨大である。JR小海線小海駅から車で約8分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「栃原岩陰遺跡」の解説

栃原岩陰遺跡

(長野県南佐久郡北相木村)
信州の史跡百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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