栗原(読み)クリハラ

デジタル大辞泉 「栗原」の意味・読み・例文・類語

くりはら【栗原】

宮城県北部にある市。同県最大の面積で稲作が盛ん。平成17年(2005)4月、栗原郡10町村が合併して成立。人口7.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「栗原」の意味・読み・例文・類語

くりはら【栗原】

宮城県の北西部の地名。栗駒山南東麓、迫(はさま)川の流域にある。東部、登米(とめ)市との境にある伊豆沼・内沼はラムサール条約登録地。東北新幹線東北自動車道が通じる。平成一七年(二〇〇五)市制。

くりはら【栗原】

(「くりばら」とも) 姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「栗原」の意味・わかりやすい解説

栗原[市] (くりはら)

宮城県北部の市。2005年4月一迫(いちはさま),鶯沢(うぐいすざわ),金成(かんなり),栗駒(くりこま),志波姫(しわひめ),瀬峰(せみね),高清水(たかしみず),築館(つきだて),若柳(わかやなぎ)の9町と花山(はなやま)村が合体して成立した。08年6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震では,栗原市一迫地区で震度6強を記録し,大きな被害を出した。人口7万4932(2010)。

栗原市南部の旧町。旧栗原郡所属。人口9517(2000)。栗駒山南麓に源を発する一迫川の流域を占める。中心集落の真坂は,若柳,築館方面から玉造温泉郷へ抜ける登米街道に沿った小商業中心地で,江戸時代は宿場町であった。農業が基幹産業で米作を主としてきたが,近年は酪農や畑作も増えている。縄文晩期から弥生初期の山王遺跡(史)があり,出土品を展示する一迫山王考古館がある。

栗原市中部の旧町。旧栗原郡所属。人口3218(2000)。栗駒山の南東麓にあり,迫(はさま)川の支流二迫(にはさま)川が町の東部を流れる。町は二迫川沿岸の水田農村である鶯沢地区と,鉱山集落を主とする細倉地区に分かれる。細倉鉱山は江戸時代に仙台藩により開発が進められ,1934年以降は三菱鉱業によって鉛,亜鉛や硫化鉱の採掘,精錬が行われてきた。最盛時は3000人をこす従業者を擁したが,70年代中ごろから合理化,生産縮小され,87年閉山した。その後,電子部品などの工場誘致に努めているが,人口流出が続き,90年鉱山の廃坑を利用して観光坑道〈細倉マインパーク〉を開設するなど,観光の町づくりを進めている。JR東北本線石越駅から〈細倉マインパーク前〉までくりはら田園鉄道(2007年廃止)が通じていた。

栗原市北東端の旧町。旧栗原郡所属。人口8334(2000)。三迫(さんはさま)川が一迫川と合流する付近に位置し,北部は丘陵,南部は三迫川流域の低地となる。沢辺,金成,有壁には江戸時代,陸羽街道の宿駅がおかれた。江戸前期に板倉堰が開削されて新田開発が進み,金成耕土として知られる良質米の産地となった。現在も産業の中心は米作だが,野菜やリンゴなども産する。旧有壁宿本陣はよく遺構が残され,史跡に指定されている。沢辺はゲンジボタル発生地として天然記念物に指定されているが,近年はかなり衰微している。旧若柳町との境に東北自動車道若柳金成インターチェンジがあり,JR東北本線が走り,くりはら田園鉄道(2007年廃止)が通じていた。

栗原市北部の旧町。旧栗原郡所属。人口1万4164(2000)。栗駒山の南東麓を占め,二迫川,三迫川が流れる。中心集落の岩ヶ崎は三迫川の谷口集落で,江戸時代は伊達氏の家臣中村氏が居城した城下町であった。二迫川,三迫川沿岸の米作が中心産業であるが,近年は肉牛,養豚など畜産がふえている。栗駒山麓の開拓地ではイチゴ,ダイコンなど高原野菜が生産される。栗駒山一帯は国定公園に指定され,近年はレクリエーション施設の整備が進められている。山麓には駒ノ湯温泉(硫化水素泉,40~43℃)がある。三迫川上流には栗駒ダムがある。また二迫川上流に荒砥沢ダムが1998年竣工し藍染(あいぜん)湖と命名された。くりはら田園鉄道(2007年廃止)が通じていた。

栗原市東部の旧町。旧栗原郡所属。1965年町制。人口7545(2000)。迫川流域の低地を占め,耕地の大部分は水田で,米作が産業の中心。北部の伊豆野原は江戸前期に伊豆野堰の開削により新田開発された。南部は築館台地末端の北側にあたり,全面的に開田されたのは第2次大戦後である。集落は一迫川などの自然堤防上に鎖状に連なる。東北新幹線のくりこま高原駅がある。八樟(やつくぬぎ)に町名の由来となった志波姫神社がある。

栗原市南東端の旧町。旧栗原郡所属。人口5515(2000)。迫丘陵の南端にあり,大崎平野の一角を占める。1890年東北本線に瀬峰駅が開設され,大正年間には瀬峰~登米(とよま)間,瀬峰~築館間に仙北鉄道が開通(現在はいずれも廃線)して,栗原・登米(とめ)両郡の交通の中心地となり,農産物の集散地として発展した。米作中心の農業が主産業で,町中央を流れる小山田川沿いに水田が広がる。南部の四ッ壇原は第2次大戦後開拓され,原野から水田にかわった。1970年ころまで人口減少が続き,工場誘致などで85年ころまでは増加傾向にあったが,その後減少している。

栗原市南端の旧町。旧栗原郡所属。人口4470(2000)。中心集落の高清水は江戸時代,奥州街道の宿場町で,1757年(宝暦7)以後仙台藩の一家の家格の石母田氏が館を構えていた。六斎市が立ち,牟良佐喜神社の年3回の祭りにちなんで行われた互市(たがいち)(物々交換市)は現在も続いている。付近は水田地帯だが,かつては用水不足に見舞われることが多かった。国道4号線が通じており,沿線にハム工場が立地する。

栗原市南東部の旧町。旧栗原郡所属。人口1万5866(2000)。栗駒山から流出する一迫川,二迫川の流域を占め,町域の南半部は丘陵をなす。中心集落の築館は江戸時代,奥州街道の宿場町で,明治以降は栗原郡の行政中心となった。現在も国や県の出先機関が多く,栗原市一帯のバス交通の中心でもある。商業活動も盛んで,江戸時代から続く互市には近隣から人々が集まる。城生野(じようの)は767年(神護景雲1)伊治城が置かれた地で,780年(宝亀11)伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱が起こったところとして知られる。米作を中心とする農業が主産業で,ダイコン,キュウリなど野菜栽培も行われる。1977年,東北自動車道築館インターチェンジが開設され,付近の丘陵では工業団地が造成されて,電器,精密などの企業が進出している。東に接する登米市の旧迫町,旧若柳町との境に迫川の遊水池としての機能をもつ伊豆沼,内沼があり,冬季にはハクチョウ,ガン,カモなどが飛来し,天然記念物に指定されている。平安時代の薬師如来座像(重要文化財)を本尊とする双林寺(杉薬師)がある。

栗原市西部の旧村。旧栗原郡所属。人口1604(2000)。栗駒山から南流し,花山湖に注ぐ一迫川の上流域を占め,北は秋田県に接する。村域の95%が山林で,県内有数の木材産出地。また栗駒山麓の丘陵地を利用した馬産地として古くから知られており,現在は酪農が盛んである。1958年一迫川に造られた花山ダムによって村の中心部が水没し,人口が急減した。その後も人口流出が続き,95年の人口は1960年の半分以下となった。70年代中ごろからは青少年旅行村や国立少年自然の家がダム湖周辺に造られ,観光開発が進められている。栗駒山麓には栗駒五湯に数えられる温(ぬる)湯,湯ノ倉,湯浜温泉があり,温湯温泉付近には江戸初期に設けられた関所跡,花山村寒湯(ぬるゆ)番所跡(史)が残る。北東部の御岳山はアズマシャクナゲ自生北限地として天然記念物に指定されている。

栗原市東端の旧町。旧栗原郡所属。人口1万4714(2000)。迫川流域の低地を占め,北東は岩手県に接する。江戸時代は仙台藩領で,迫川の水運を利用した〈本石(ほんこく)米〉の集散地として栄え,周辺では藩の奨励により新田開発が積極的にすすめられた。明治以降は栗原郡東部の商業中心地となり,また仙北平野の西部,いわゆる金成耕土の一角を占め,良質米ササニシキの産地としても知られている。1960年代後半から工場誘致が進み,電子,自動車部品,縫製などの工場が立地する。中心市街地は迫川をはさんで川北と川南に分かれており,ともに1978年の迫川改修工事にともなう土地区画整理事業で新造成地に移転した。旧金成町との境に東北自動車道の若柳金成インターチェンジがある。迫川の北岸をくりはら田園鉄道(2007年廃止)が通じていた。町の南西端に伊豆沼がある。
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