桂川甫筑(読み)かつらがわほちく

精選版 日本国語大辞典 「桂川甫筑」の意味・読み・例文・類語

かつらがわ‐ほちく【桂川甫筑】

江戸中期の蘭医桂川家初代。本姓森島。名は邦教通称、小助。大和の人。平戸藩医嵐山甫安、のち長崎の蘭医ダルネル=アルマンスに外科医術を学び、幕府の医官となる。オランダ使者と対話し、海外事情を聴取。著に「仙鼎方」がある。寛文元~延享四年(一六六一‐一七四七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂川甫筑」の意味・わかりやすい解説

桂川甫筑
かつらがわほちく

江戸時代の医家。桂川姓では初代、2代、3代、5代が甫筑を通称とする。

[末中哲夫]

初代

(1661―1747)蘭方(らんぽう)外科医。名は邦教(くにみち)。字(あざな)は友之、初名を小吉といい、興藪翁と号す。本姓森島氏。大和(やまと)国二階堂村蟹幡(かにばた)の出身(天理市嘉幡(かばた)町)。1681年(天和1)嵐山甫安(あらしやまほあん)に入門、蘭方外科を学び、平戸・長崎に随行修学。1687年(貞享4)京都に移るに際し、甫安の命により嵐山の学統を継ぐ者として桂川と改姓した。1692年(元禄5)徳川家宣(いえのぶ)に仕え、1704年(宝永1)寄合(よりあい)医師。1724年(享保9)幕命によりカピタンと対話(『和蘭(おらんだ)問答』)。1734年法眼(ほうげん)に叙せられた。編著作に『仙鼎方(せんていほう)』(1762)、『繕生室(ぜんせいしつ)医話』6冊(1683)がある。延享(えんきょう)4年10月9日没。歴代とも東京都港区芝白金二本榎(にほんえのき)上行(じょうぎょう)寺に葬られたが、現在は神奈川県伊勢原(いせはら)市に墓所が移っている。

[末中哲夫]

2代

(1697―1781)名は国華(くにてる)。幼名は竹松、初名を甫三(ほさん)といい、1747年(延享4)甫筑に改名。奥医師を勤め調薬に従事した。

[末中哲夫]

3代

(1730―1783)名は国訓(くにのり)。幼名は小吉、初名を甫謙・甫三といい、釣月と号す。奥医師。青木昆陽(こんよう)に蘭語を学び、オランダ人と対話(1761)、1764年(明和1)平賀源内著『火浣布(かかんぷ)略説』序文を執筆、1767年前野良沢(りょうたく)・杉田玄白から調薬方を伝授され、1774年(安永3)『解体新書』を大奥から献上方を推薦。1782年(天明2)『府(ようふ)』7巻を編集するなど、蘭学の推進に積極的に協力した。

[末中哲夫]

5代

(1767―1827)名は国宝(くにとみ)。幼名は琳之助(りんのすけ)、初名を甫謙・甫周といい、字は孟春、柳窓と号す。漢方の名家多紀道訓(みちのり)の長子で、1793年(寛政5)桂川家の養子となった。奥医師。1814年(文化11)吉田長淑(ちょうしゅく)(1779―1824)訳『泰西熱病論』に序文を寄せた。

[末中哲夫]

『今泉源吉著『蘭学の家 桂川の人々』正続(1965、1968・篠崎書林)』

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朝日日本歴史人物事典 「桂川甫筑」の解説

桂川甫筑

没年:延享4.10.9(1747.11.11)
生年:寛文1(1661)
江戸中期の蘭方医。大和国(奈良県)山辺郡蟹幡生まれ。名は邦教,字は友之,興藪と号した。本姓は森島氏。父は理右衛門正俊。寛文11(1671)年京都に出て平戸藩医嵐山甫安についてオランダ外科を学んだ。延宝1(1673)年甫安にしたがって平戸に移り,長崎へも遊学してオランダ人医師(その人については諸説がある)についてさらに外科を学んだ。貞享4(1687)年京都に帰る。その折甫安よりその学才を認められて桂川の姓を受ける。元禄9(1696)年甲府城主徳川綱豊(のちの将軍家宣)の侍医となり,宝永1(1704)年幕府医官となる。享保9(1724)年江戸参府のオランダ人と対談を命じられ,以後毎年これを行う。同19年法眼に叙せられる。オランダ流奥医師の祖。

(深瀬泰旦)

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