桶狭間古戦場伝説地(読み)おけはざまこせんじようでんせつち

日本歴史地名大系 「桶狭間古戦場伝説地」の解説

桶狭間古戦場伝説地
おけはざまこせんじようでんせつち

[現在地名]豊明市栄町 南舘

名鉄本線中京競馬場前ちゆうきようけいばじようまえ(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。合戦場は現在の豊明市・大府市・緑区にかかわっていたが、今川義元戦死の地については、二村ふたむら山の西の田楽でんがくくぼ・国史跡指定地・桶狭間の三説があげられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「桶狭間古戦場伝説地」の解説

おけはざまこせんじょうでんせつち【桶狭間古戦場伝説地】


愛知県豊明市栄町にある古戦場跡。指定名称は「桶狭間古戦場伝説地 附戦人塚(つけたりせんにんづか)」。1560年(永禄3)、大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川氏真・義元に対して、尾張の織田信長がその10分の1ともいわれる軍勢で今川軍を破った桶狭間の戦い。その古戦場の伝説地は、今川方の拠点である沓掛(くつかけ)城と鳴海(なるみ)城を結ぶ合戦当時の東海道からはやや南に離れているが、鳴海城方面に通じる谷筋の一角にある。『信長公記(しんちょうこうき)』では今川義元が「桶狭間山」に本陣を構えたと記録されているが、「桶狭間山」の位置はいまだ不明確であり、義元が戦死した場所を示す石碑や義元の墓、重臣松井宗信の墓、古戦場が放置されているのを嘆く弔古碑など、いずれも江戸時代になって石碑などが建てられた場所が、1937年(昭和12)に国の史跡に指定された。戦人塚は曹源寺の快翁龍喜和尚が命じて戦死者の屍(しかばね)を集めて葬った塚で、かつては「駿河塚」と呼ばれていたと伝えられ、塚上の碑は1739年(元文4)の180回忌の供養祭に建立されたものという。名鉄名古屋本線中京競馬場前駅から徒歩約2分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の桶狭間古戦場伝説地の言及

【豊明[市]】より

…市の北端にある若王子(にやくおうじ)池には古墳時代の集落跡若王子池遺跡がある。名鉄中京競馬場駅前の南方200mの地には桶狭間(おけはざま)古戦場伝説地(史)があり,戦死者を葬ったという戦人塚も残る。伝統芸能として大脇の梯子獅子,上高根の棒の手が伝わる。…

※「桶狭間古戦場伝説地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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