梅若六郎(読み)うめわかろくろう

精選版 日本国語大辞典 「梅若六郎」の意味・読み・例文・類語

うめわか‐ろくろう【梅若六郎】

〘名〙 能楽師シテ方観世流。二世梅若実長男東京の人。昭和三六年(一九六一)梅若能楽学院を設立。明治四〇~昭和五四年(一九〇七‐七九

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デジタル大辞泉 「梅若六郎」の意味・読み・例文・類語

うめわか‐ろくろう〔‐ロクラウ〕【梅若六郎】

[1907~1979]能楽師。シテ方観世流。東京の生まれ。2世梅若実の長男。梅若能楽学院を主宰した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「梅若六郎」の意味・わかりやすい解説

梅若六郎
うめわかろくろう

能の観世流シテ方、梅若本家の通名。55世六郎(1907―79)は、2世梅若実の長男で、東京生まれ。前名亀之(たかし)、景英(かげふさ)、六之丞(ろくのじょう)。美貌(びぼう)と美声に恵まれ、艶麗(えんれい)な芸で多くの人を魅了した。現行曲のすべてを完演、公開の演能の数では2000番を超す史上最多の舞台を勤めた。ギリシアほか海外にも足跡を残す。1954年(昭和29)、能界から孤立した梅若流から観世流への復帰英断をもって果たし、61年には能界初の学校組織による梅若能楽学院を設立、理事長となる。67年芸術院会員。56世六郎(1948― )は、本名善政(よしまさ)、55世の次男。前名景英、六之丞、紀彰(としてる)。官能美と演出力をあわせもつ演者で梅若会を主宰。『大般若(だいはんにゃ)』などの復元、『伽羅沙(がらしゃ)』などの新作にも意欲を示し、平成を代表する能役者。メトロポリタン美術館ほかで海外能も行う。編著に『五十五世梅若六郎』『梅若能面百姿』。

増田正造

『梅若六郎(56世)著『梅若六郎能の新世紀(Shotor Library 能楽入門)古典~新作まで』(2002・小学館)』『梅若六郎(56世)著『まことの花』(2003・世界文化社)』『梅若紀彰編、増田正造写真『梅若能面百姿』(1985・平凡社)』

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百科事典マイペディア 「梅若六郎」の意味・わかりやすい解説

梅若六郎【うめわかろくろう】

能楽師。観世流シテ方の梅若家の通名。55世の六郎〔1907-1979〕は2世梅若実の長男であり,前名は亀之(たかし),景英,六之丞。1948年襲名。1954年一門とともに観世流に復帰。梅若独立運動に終止符を打った。優艶な芸風。能楽界最初の学校組織による梅若能楽学院理事長。1967年芸術院会員。56世六郎〔1948-〕はその長男。
→関連項目観世華雪

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世界大百科事典(旧版)内の梅若六郎の言及

【梅若実】より

…実父は寛永寺御用達鯨井平左衛門。梅若六郎氏暘(うじあき)の養子となり,1839年(天保10)家督相続,59年(安政6)六郎氏実(うじざね)と名のる。72年(明治5)家督を養子源次郎(のちの観世清之)に譲り,隠居して実と改名。…

【観世流】より

…その後,梅若妙音大夫や梅若玄祥らが出,観世大夫のツレを務めるなどし,織田信長,徳川家康の後援を受け,江戸時代は観世座のツレの家として公認された。維新の際,離京した観世清孝に代わって孤塁を守った梅若六郎(のちの初世梅若実)は,しだいに流勢を挽回し,くろうと・しろうとの門弟にみずから免状を発行するに至った。これは旧来家元の有していた特権を侵したことになる。…

※「梅若六郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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