梟首(読み)キョウシュ

デジタル大辞泉 「梟首」の意味・読み・例文・類語

きょう‐しゅ〔ケウ‐〕【×梟首】

[名](スル)斬首ざんしゅした人の首を木にかけてさらすこと。また、その首。獄門

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精選版 日本国語大辞典 「梟首」の意味・読み・例文・類語

きょう‐しゅ ケウ‥【梟首】

〘名〙
斬罪(ざんざい)に処した罪人の首を木にかけてさらすこと。また、その首。鎌倉時代以降、獄門ともよばれた。梟示(きょうじ)竿首(かんしゅ)。さらしくび。
明月記‐治承四年(1180)五月二六日「賊徒多梟首」
江戸時代死刑種類一つ。さらし首。
※俳諧・水馴棹(1705)「将門が梟首昼迚日は瞽ず」 〔崔寔政論

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改訂新版 世界大百科事典 「梟首」の意味・わかりやすい解説

梟首 (きょうしゅ)

犯人の首を広く公衆に示す刑罰。さらし首。《日本書紀》崇峻即位前紀に叛将捕鳥部万(ととりべのよろず)の死骸を8段に斬り,8ヵ国に散梟(ちらしくしさす)せしめたとあるのが梟首関係史料の初見。大宝律,養老律では死刑に絞,斬の二等を設けただけで,梟首の規定はない。下って940年(天慶3)平将門の首を京に梟しており,以後,平忠常,安倍貞任,源義親ら反乱の首魁や,京中の強盗等の重罪犯を梟首した事例が見られるが,病死した平忠常,自殺した藤原通憲(信西)の例でわかるように,梟首は斬罪の付加刑ではなく,斬罪より重い独立の刑種であった。刑の執行に当たっては,罪人の首を鋒(ほこ)に刺して京の大路を練り歩いたのち,獄門の楝(おうち)樹に懸けるのが例となった。鎌倉時代に入って,梟首を獄門とも呼ぶようになるのはこの慣行にもとづく。梟首の目的は,一般人を威嚇する〈みせしめ〉にあると説かれるが,本来は死骸の恥をさらすことにあったとする説もある。鎌倉幕府,室町幕府は梟首を極刑として頻用し,罪名人名等を記した木札を立てることも鎌倉時代末から行われ,また室町時代,京都では梟首の場に河原を用いることが多かった。戦国時代に入って磔,火刑などの惨刑が行われるに及んで,梟首(獄門)は極刑の座を失った。
獄門
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百科事典マイペディア 「梟首」の意味・わかりやすい解説

梟首【きょうしゅ】

古代から近代初頭まで行われた,犯人の斬首を公衆の前にさらす刑罰。〈さらし首〉ともいう。《日本書紀》崇峻(すしゅん)天皇即位前紀には,叛将捕鳥部万(ととりべのよろず)の死骸が8段に斬られて8ヵ国に〈散梟(ちらしくしさす)〉されたことが記される。だが律では死刑は絞刑・斬刑の2種で,梟首の規定はない。940年平将門の首が京において梟されたのが最初とされ,以後,反乱の首謀者や京中の強盗などの重罪犯の刑として執行された。罪人の首を鋒に差して京中を巡ったのち,獄門(ごくもん)の樗(おうち)の木に架けるのが通例となり,ここから鎌倉時代には梟首を獄門ともよぶようになった。鎌倉・室町時代には極刑として用いられたが,戦国時代以降は(はりつけ)・火刑などに次ぐものとなった。明治新政府にも継承され,1879年廃止された。
→関連項目引廻し

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普及版 字通 「梟首」の読み・字形・画数・意味

【梟首】きよう(けう)しゆ

さらし首。〔漢書、武帝紀〕(征和三年)六、丞相(劉)屈(くつり)、獄に下りて(腰)斬せられ、妻子梟首せらる。

字通「梟」の項目を見る

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「梟首」の意味・わかりやすい解説

梟首
きょうしゅ

晒首(さらしくび)にすること。律にはみえていないが、古代から中世にかけて行われ、江戸時代には獄門(ごくもん)と称した。

[編集部]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「梟首」の解説

梟首
きょうしゅ

晒首(さらしくび)とも。死刑の一種で,威嚇のため斬った首を公衆の前にさらすとされている。古くは死刑のなかでも最重刑とされ,平将門のような内乱の首謀者や政治犯に科せられることが多かった。首をさらす際に獄の門前の木を用いたことから,中世以降,獄門といういい方がうまれ,近世では梟首にかわる呼称となった。戦国期以降,磔(はりつけ)・火刑が最重刑として採用され,それらにつぐ重刑とされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「梟首」の意味・わかりやすい解説

梟首
きょうしゅ

獄門」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の梟首の言及

【刑場】より

…徳川家康の関東入国以前には日本橋本町4丁目に刑場があったといい,小塚原刑場は浅草鳥越から聖天町を経て千住の地に落ち着いたもの,鈴ヶ森刑場は1651年(慶安4)丸橋忠弥らの処刑に始まると伝えられている。両刑場では磔(はりつけ)および火罪の刑を執行し,獄門刑については牢内ではねた首を運んで獄門台上に梟示(きようじ)(梟首,さらし首)した。出生地,住居地,犯行地に近い刑場が選ばれたが,幕末には小塚原を使用することが多かった。…

【刑罰】より

… 第2は団体法的刑罰の発達であって,村落などの地縁団体,武士の一族結合などに見られる血縁団体,さらには15世紀以降に発展する大名領での団体的結合(家中)等において,団体内部の闘諍をなるべく小規模に収めることで団体の平和と安全を維持しようとの要請から,仇討(敵討)を親子の間に限り,また第一次の仇討のみを認める法慣習,個人対個人の争いで一方が殺された場合,他方も殺害されるか,相手方に引き渡されるとする下手人の法慣習や喧嘩両成敗法が生まれたこと,犯罪者を団体外,領域外に放逐して,団体の保護の外に置く追放刑が,武家法,本所法で盛行したことなどが注目される。 第3は原始刑罰思想の表出であって,これを律令前の刑罰の再生とみるか,律令制下にも潜在的に生き続けたものの露頭とみるかは,なお確定しがたいとしても,(1)罪を穢(けがれ)とする観念に基づき,穢=禍いを除去する意味をもつ犯罪者の家屋検封や破却,焼却など,(2)死者の霊に対する加罰を意味する,犯罪者の死骸処刑(死骸の(はりつけ)や梟首(きようしゆ)),(3)刑罰の目的を,被害者の苦痛の回復とする観念に基づく,博奕者の指とか盗犯の指や手を切るなどの肉刑が,中世の刑事現象の特異な一面を示していることは疑いない。【佐藤 進一】
[日本近世]
 中世末~戦国時代にかけて地方政権の相対的弱さと戦時期の緊張から刑罰はきわめて残虐になった。…

【獄門】より

…江戸時代の刑罰の一種で,晒首(さらしくび),梟首(きようしゆ)ともいう。かつて梟首は,獄舎の門に首を懸けて行われたので,獄門の名が生じた。…

【晒首】より

…1660年,ピューリタン革命のあと王政復古したイギリスのチャールズ2世が,父チャールズ1世処刑の責任者として,すでに死んでいるクロムウェル,アイアトンらの墓をあばき,首を矛(ほこ)に刺して晒したことは,すでに死んでいる者の首に意味をこめておりその典型である。 日本の近世には,晒首は中国にならって梟首(きようしゆ)とよばれ,また梟首した首を獄舎の門に懸けたので獄門ともよばれた。首を晒すのも獄門に懸けるのも,〈引回し〉と同様に死罪の付加刑であった(《公事方御定書》)。…

【引廻し(引回し)】より

…罪人を衆にさらして見せしめにするとともに,確実に罪人を逮捕,処刑した事実を衆に示して,権力を誇示する意味があった。引廻しの刑は,律令法にはその規定がなく,平安時代に入って起こったらしく,反乱の首領その他の重罪犯を斬刑に処して,これを梟首(きようしゆ)するに先立って,首を矛先に貫いて洛中を練り歩くことが定式化して,当時これを〈大路(おおじ)を渡す〉〈都を渡す〉などと称した。また反乱の降人,捕虜などを,死罪を免じて〈大路を渡〉したうえで禁獄することも行われた。…

※「梟首」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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