楽音寺(読み)がくおんじ

日本歴史地名大系 「楽音寺」の解説

楽音寺
がくおんじ

[現在地名]本郷町南方

楽音寺山南麓に位置し、真言宗御室派。歓喜山法持院と号し、本尊薬師如来。弘安一一年(一二八八)四月一二日の関東下知状案(楽音寺文書)に天慶年中(九三八―九四七)沼田ぬた庄本下司沼田氏の建立とみえる。沼田庄の中心寺院として二院一八坊を擁し勢力を振るった。もと天台宗で、室町時代初期に真言宗に改宗。

楽音寺縁起絵巻によると、沼田の地に流されていた藤原倫実が、護持仏の一寸二分の薬師像の霊験で藤原純友を討ち沼田七郷を与えられたので、これを胎内仏とした丈六の薬師像を造立、伽藍を建立して安置したのが楽音寺だという。楽音寺院主職は代々倫実の一族に相伝されていた(元弘三年八月日付「楽音寺院主良承申状」蟇沼寺文書)

楽音寺
がくおんじ

[現在地名]亀岡市東本梅町大内

大内おおち北方山上にある。医王山と号し、本山修験宗、本尊薬師如来。

創建時期は不明。天正年間(一五七三―九二)明智光秀の兵火に遭ったが、寛永年間(一六二四―四四)亀山かめやま城主菅沼定芳が復興したことは、寛永一三年の梵鐘銘にみえる。

本尊の薬師如来は秘仏であるが、その前に安置してある神尾山かんのおやま城主野口西蔵坊寄進の薬師如来坐像の膝裏と光背裏に元亀四年(一五七三)の銘があり、「七条大仏師康清作」とみえる。

楽音寺
がくおんじ

[現在地名]西区平中町

禅林山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊薬師如来。「徇行記」は天台宗の寺院であったが、正保二年(一六四五)山が再建して禅宗に改めたといい、「西春日井郡誌」は「創始年代詳ならざれども元和三年の建立ならんといふ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「楽音寺」の意味・わかりやすい解説

楽音寺 (がくおんじ)

広島県三原市南方にある寺院。沼田(ぬた)荘の開発領主であった沼田氏の創建した寺であり,現在は真言宗であるが,応永(1394-1428)以前は天台宗であった。中世の盛時には多くの坊が立ちならんでいたというが,いまは本堂と若干のお堂が残っているだけである。楽音寺縁起によれば,天慶年中(940年代)藤原倫実(ともざね)が護持仏薬師小像の霊験で藤原純友の乱を平定し,沼田七郷を勅賜された恩に報いるため創建した寺院という。しかし当寺が藤原姓沼田氏代々の氏寺として平安時代に草創されたことはまちがいない。沼田荘の開発領主で下司をつとめた沼田氏が平氏とともに滅んだあと,地頭として入ってきた小早川氏は当寺をみずからの氏寺とし,所領の寄進などを重ねている。また当寺は沼田地方の中心的神社である一宮の管理にもあたっている。小早川氏は鎌倉後期には独自の氏寺巨真山寺(米山寺)を建立するが,当寺はその後も小早川氏一門の崇敬を集めた。ことに室町時代には当寺が所在する梨子羽(なしわ)郷の大部分を所領とする竹原小早川氏の庇護を受け,種々の特権を与えられて繁栄を続けた。
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世界大百科事典(旧版)内の楽音寺の言及

【本郷[町]】より

…沼田川東岸にある高山城(妻高山城)跡,西岸にある新高山城はともに国の史跡。南方(みなみがた)にある真言宗楽音(がくおん)寺は平安時代の創建と伝え,中世には小早川氏の氏寺として栄えた。その南にある同宗東禅寺はもと蟇沼(ひきぬ)寺とよばれ,楽音寺とともにかつての沼田荘の宗教的拠点であった。…

※「楽音寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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