横須賀城(読み)よこすかじょう

日本の城がわかる事典 「横須賀城」の解説

よこすかじょう【横須賀城】

静岡県掛川市(旧小笠郡大須賀町)にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。国指定史跡。江戸時代には横須賀藩の藩庁が置かれていた。天竜川の石を使った玉石垣を用いた他に例を見ない築城法により築かれた城として知られる。武田信玄死後の1574年(天正2)、甲斐の武田勝頼遠江(とおとうみ)へ侵攻を開始し、小笠原長忠(おがさわらながただ)を城将としていた徳川方の高天神城(掛川市)を攻略した。しかし、翌1575年(天正3)、長篠・設楽ヶ原(したらがはら)合戦で武田軍が徳川・織田連合軍に大敗し、家康は高天神城の奪還に乗り出した。そのため、徳川家康は高天神城攻略の軍事拠点(付け城)として、かつて高天神城の防衛戦に参加した大須賀康高に命じて築城させたのが横須賀城である。家康は高天神城の周囲に横須賀城を含む6つの付け城を築いて交通を遮断し、兵糧・弾薬の搬入を阻止して高天神城を攻略した。高天神城攻略後、家康は高天神城を廃して、横須賀城を遠江東部から駿河にかけての攻略の拠点として整備を行った。1590年(天正18)に家康が関東に移封になると、城主大須賀忠政(康高の養子榊原康政実子)は上総(千葉県)の久留里城(千葉県君津市)に移封となり、代わって渡瀬氏が城主として入城した後、豊臣譜代の有馬氏が入城した。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、大須賀氏が再び城主となり、近世城郭としての整備が行われた。その後、能見松平氏・井上氏・本多氏と城主がめまぐるしく変わったが、西尾忠成が2万5000石で入封して以後、西尾氏7代が城主(藩主)をつとめ明治維新を迎えた。現在、本丸・西の丸を中心とする主郭のあった城域が公園として整備されている。園内には石垣、堀、土塁などの遺構が残っている。また、かつて二の丸にあった不開門が市内横須賀の撰要寺(せんようじ)の山門として移築され現存し、同市の文化財となっているほか、旧御殿の一部が袋井市村松の油山寺(ゆさんじ)に移築され現存している。JR東海道本線袋井駅からバス、大須賀支所下車。◇松尾城、両頭城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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