歓喜寺(読み)かんぎじ

日本歴史地名大系 「歓喜寺」の解説

歓喜寺
かんぎじ

[現在地名]金屋町歓喜寺

歓喜寺集落の東方山中にある。聖衆来迎山恵心院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来(木造坐像、国指定重要文化財)。江戸時代には浄土宗鎮西派の徳田とくだ(現和歌山県吉備町)大乗だいじよう寺末。江戸時代中期にできた聖衆来迎山歓喜寺縁起(寺蔵)は寛和二年(九八六)源信の開基とするが、建長五年(一二五三)三月に書写された明恵上人紀州所々遺跡注文(施無畏寺文書)は遺跡八所の一として「石垣吉原歓喜寺」をあげ、「此地者、上人誕生之処也、義林房、申入子細宣陽門院、以彼吉原、為別納不輸之地、建立一堂、号歓喜寺、宗光三男左衛門尉宗氏、敬重上人遺徳、故同心合力、営土木之功矣」と記す。これによれば明恵の誕生地に高弟喜海(義林房)が湯浅宗氏の助力を得て建立したのに始まる。その年代は明恵の没した寛喜四年(一二三二)一月以降、喜海の没した建長二年一二月以前ということになる。ただし当寺には上品堂・中品堂・下品堂があり、石垣千体仏とよばれる仏像を安置する。

歓喜寺
かんぎじ

[現在地名]和歌山市禰宜

じようヶ峯の西の山麓部、旧熊野街道の東に位置する。臨済宗妙心寺派。井谷山と号し、本尊は薬師如来。最初蓮光れんこう寺と称され、文永五年(一二六八)正月日の大法師恵鏡伽藍譲状案(歓喜寺文書)によると、宝治二年(一二四八)恵鏡によって開かれ、京都御霊社の南に位置していたという。この蓮光寺が紀伊国と関連をもつのは、文永元年三月、後鳥羽上皇の宮女大宮局が、上皇の菩提を弔うため、紀伊国和佐わさしも村・みなみ村の両村を寄進したことに始まる(嘉元元年一〇月日「歓喜寺住侶等寺領文書紛失状」同文書)。以後、和佐庄下・南両村は重要な寺領となる。

蓮光寺から歓喜寺へいつ名称が変わったかは明らかではないが、弘安四年(一二八一)一〇月一〇日の大鑁置文案(歓喜寺文書)に歓喜寺の名称がみえる。もとは密教寺院、比叡山延暦寺の末寺となったこともあったという。正応三年(一二九〇)一〇月二日には後深草上皇から祈願所とする院宣(同文書)を得ており、以後も数度院宣を得、寺領(和佐荘下村・南村)の国役なども免除されている。

歓喜寺
かんぎじ

[現在地名]室戸市羽根町 里

羽根はね川河口北側の台地末端部にあり、臨済宗妙心寺派、虞法山と号し、本尊聖観音菩薩。鎌倉時代後期、紀州由良興国ゆらこうこく寺の法燈国師が巡錫の折に創建したと伝え、中世は興国寺末で、法燈国師の没した一〇月一三日を開山忌とする。土佐に臨済宗妙心寺派の寺院は多いが、羽根の歓喜寺・智泉ちせん寺・南泉なんせん寺の三寺院のみが法燈国師ゆかりの寺である。

天正一七年(一五八九)の羽禰之村地検帳は「里ノ村」に「クワンキ寺中」として二〇代を記すが寺領はない。

歓喜寺
かんぎじ

[現在地名]今治市町谷

楠谷くすだに山にある。瑠璃山と号し、高野山真言宗。本尊薬師如来。河野殿持仏堂新築大勧進趣意書によると、元慶三年(八七九)河野氏の祈願寺として創建され、旧地は古谷こや(現越智郡朝倉村)で、竹林ちくりん寺・清水寺など古谷七坊の一つであったと伝える。のち度々兵火に遭い、本尊薬師如来を町屋の庵に移していたが、寛文年間(一六六一―七三)快盛の時に移転、再建されたとある。

歓喜寺
かんぎじ

[現在地名]秋田市旭北寺町

旭北寺きよくほくてら町南部。曹洞宗、円通山と号し、本尊は十一面観音。

元禄五年(一六九二)写の秋田六郡寺院調書(県立秋田図書館蔵)に「円通山歓喜寺現住少水、開基不知、勧請開山本寺八世察心寿鑑大和尚、現住迄十世、月泉派本寺松原村補陀寺、当寺末寺三ケ寺アリ」とみえる。

寺町には当時藩の主流をなした天徳てんとく寺系と対立した月泉派松原補陀まつばらほだ寺を本寺とする曹洞宗寺院が当寺の他に二寺ある。

歓喜寺
かんきじ

[現在地名]岩井市辺田

菅生すがお沼のヤトを見下ろす台地に所在。辺田山地蔵院と号し真言宗豊山派。本尊不動明王。寺伝によれば慶安三年(一六五〇)中興五世祐誉の代に大字神田山の妙音かどやまのみようおん寺を本寺とし、東福とうふく寺・大日だいにち坊を配下にもち、鎮守香取神社の別当寺でもあった。寛永五年(一六二八)伊奈忠次が下した五石の寺領安堵証文をはじめ、幕府も地蔵堂領高五石の朱印状を出している(慶安元年以後九通あり)。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)に「一御朱印高五石、真言宗、神田山村妙音寺末寺、辺田山地蔵院、(ママ)喜寺、山林境内拾五町九反五畝四歩」とある。

歓喜寺
かんぎじ

[現在地名]石下町古間木

古間木ふるまぎ集落西方にあり、境内に古木が茂る。修光山法満院と号し天台宗。本尊阿弥陀如来。創建年代不詳。創建当時は鬼怒川を望む宮内みやうちにあり、法満の開山と伝えられる。言伝えによると宮内の近くに昔国司の妻を弔ったところといわれる妻亡つまなし沼があり、その菩提のために建立されたのが歓喜寺だという。近世に入り熊野神社(現在当寺西にあり)の別当として同社の朱印地三石を受け、貞享二年(一六八五)の徳川綱吉朱印状など朱印状四通を蔵する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「歓喜寺」の意味・わかりやすい解説

歓喜寺 (かんぎじ)

和歌山県有田郡有田川町にある寺。来迎山と号す。華厳教学復興で知られる明恵上人高弁の生誕地に明恵の高弟義林房喜海が,師の遺徳をしのび土地の豪族湯浅宗光(明恵の母の兄)の三男左衛門尉宗氏の協力を得て建立したという。元禄年間(1688-1704),浄土宗に改宗。源信作と伝える重文の阿弥陀木像座像を蔵し,また寺のかたわらには,1236年(嘉禎2)に喜海が建てた木卒塔娑(そとば)を後に石に改めたものが立っている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の歓喜寺の言及

【和佐荘】より

…1189年(文治5)ころ石清水(いわしみず)八幡宮寺祠官の田中成清を領家(りようけ)とし,高野山随心院を本家とする下和佐荘が成立したため,これと区別するために上和佐荘(和佐上荘)と称することもある。当荘の下村と南村(箕田村)の領家職(しき)は歓喜寺が有しており,在庁名(ざいちようみよう)と思われる千住名も荘内にあったが,その他の領有関係はつまびらかでない。歓喜寺はもと京都にあって蓮光寺と称し,1264年(文永1)後鳥羽院の寵妾大宮局の寄進によって下村,南村を領した。…

※「歓喜寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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