正伝寺(読み)しょうでんじ

精選版 日本国語大辞典 「正伝寺」の意味・読み・例文・類語

しょうでん‐じ シャウデン‥【正伝寺】

京都市北区西賀茂鎮守庵町にある臨済宗南禅寺派の寺。山号は吉祥山。文永五年(一二六八)、東巖慧安(とうがんえあん)が一条今出川に創建。開山は兀菴普寧(ごったんふねい)。弘安五年(一二八二)、現地に移り、後醍醐天皇勅願所となった。本堂伏見城の遺構を移したもので、襖絵は狩野山楽の筆と伝えられる。

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日本歴史地名大系 「正伝寺」の解説

正伝寺
しようでんじ

[現在地名]北区西賀茂鎮守庵町

ふな山南山腹にある。臨済宗南禅寺派、吉祥山と号し、本尊釈迦如来聖護しようご(現京都市左京区)執事の静成法印が、来日僧兀庵普寧の高弟東巌恵安に帰依し、文永五年(一二六八)一条今出川いまでがわ(現同市上京区)に仏殿を構え、恵安を開山とした。蒙古来襲を憂慮した恵安は、山城石清水いわしみず八幡宮に参籠祈願したが、文永七年五月および同八年九月の紙本墨書東巌和尚蒙古降伏祈祷文はこの時のものである。

正伝寺
しようでんじ

[現在地名]弘前市西茂森町一丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。宗徳そうとく寺を主座とする下寺のなかにある。安盛あんせい寺と永泉ようせん寺の間に位置。薬王山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。もと耕春こうしゆん院末寺。開山は耕春院八世中厳撮堂。開基は不詳。

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、森山もりやま(現南津軽郡大鰐町)にあったとあり、開基は文禄四年(一五九五)とある。寺伝では三ッ目内みっめない(現大鰐町)にあった金竜きんりゆう寺の末寺という。正徳元年(一七一一)の寺社領分限帳(市立弘前図書館蔵)では慶長年間(一五九六―一六一五)現在地に移転したとある。

正伝寺
しようでんじ

[現在地名]八百津町野上

野上の栃ノ木のがみのとちのきにあり、法雲山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊十一面観音。初め法雲山米山べいさん寺と称し、現在地より三町余東方にあった。夢窓疎石により暦応二年(一三三九)に開基され、七堂伽藍を備え、足利尊氏守衛の地であった。のち明応二年(一四九三)東陽英朝が中興開山となり、以来妙心寺派となった。永正元年(一五〇四)五月日の土岐政房控書写(正伝寺文書)に「賀茂郡米田庄和知県法雲山米山寺」につき定めおかれた条々が記されている。また同日付で同人の禁制も出されている。天正八年(一五八〇)二月二八日には織田信長が当寺領七三石余ならびに境内三〇石の朱印状を発している。

正伝寺
しようでんじ

[現在地名]横手市大屋新町字鬼嵐

背後は山で、大屋寺内おおやてらうちから鬼嵐おにあらしに通ずる道に沿う。曹洞宗、祝融山と号し、本尊は聖観音

「雪の出羽路」には相模小田原の海蔵かいぞう寺三世大州梵守(大永五年没)が、大和国の真言宗長谷はせ寺から拝受した聖観音像を捧持して、大屋寺内村大屋沼のほとりに長谷山観音かんのん寺を建立したという。

正伝寺
しようでんじ

[現在地名]安佐南区安古市町相田

やす川南側の山際にあり、浄土真宗本願寺派、金尾山蛍光院と号し、本尊阿弥陀如来。「芸藩通志」に武田氏に従い甲斐より来るとあり、古く浄土宗で相田坊と称したが、明応七年(一四九八)願了の時真宗に改宗し、慶長一二年(一六〇七、一説に寛永一七年)寺号を改めた。仏護ぶつご(現中区の本願寺広島別院)十二坊の一で、略縁起には、恵心の高弟恵空が武田たけだ山北麓に草庵を結んだのに始まるとあり、弘安七年(一二八四)時宗に転じ、明応七年願了が真宗に改めたと記す。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正伝寺」の意味・わかりやすい解説

正伝寺
しょうでんじ

京都市北区西賀茂鎮守庵(ちんじゅあん)町にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の寺。正しくは吉祥山(きっしょうざん)正伝護国禅寺(しょうでんごこくぜんじ)。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1268年(文永5)宋(そう)僧兀庵普寧(ごったんふねい)の高弟東巌慧安(とうがんえあん)を開山として創建され、もと一条今出川(いちじょういまでがわ)(上京(かみぎょう)区)にあった。文永(ぶんえい)の役(1274)に慧安が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)にこもって国家安泰を祈願したことによって、亀山(かめやま)天皇より吉祥山正伝護国禅寺の号を下賜された。のち天台宗の山徒の迫害にあい堂宇は破却され、1282年(弘安5)に現在地に再建された。1323年(元亨3)後醍醐(ごだいご)天皇によって勅願寺と定められ、足利(あしかが)氏、徳川氏の庇護(ひご)を受けて栄えたが、明治維新後は荒廃し、復興をみたのは第二次世界大戦後である。方丈(国重要文化財)は伏見桃山(ふしみももやま)城御成殿の遺構を1653年(承応2)に移建したもの。方丈各部屋の襖絵(ふすまえ)は狩野山楽(かのうさんらく)筆の中国、杭州(こうしゅう)西湖山水楼閣図である。方丈広縁の天井は「伏見桃山城の血天井」として知られる。また庭園は小堀遠州作と伝える。寺宝に兀庵普寧禅師頂相(ちんそう)2幅、東巌禅師蒙古(もうこ)降伏祈祷(きとう)文(いずれも国重要文化財)などがある。

[菅沼 晃]

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改訂新版 世界大百科事典 「正伝寺」の意味・わかりやすい解説

正伝寺 (しょうでんじ)

京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の寺。吉祥山と号する。来日した中国の禅僧兀庵普寧(ごつたんふねい)の高弟だった東巌慧安(とうがんえあん)を開山として,1268年(文永5)一条今出川(現在の京都御所北東付近)に開創,82年(弘安5)現地に移った。開山慧安は元寇にあたって石清水八幡宮に蒙古降伏を参籠祈願し,亀山上皇の賞をえて正伝護国寺の号を下賜されたことは史上に有名であり,このときの東巌禅師筆蒙古降伏起請文(重要文化財)も伝蔵されている。近世の朱印寺領108石。明治維新後衰微したが,現在は禅院らしい閑寂なたたずまいをとりもどしている。なお,方丈(本堂)は伏見城の遺構と伝え,正面広縁の板天井は世に〈血天井〉と称されて有名。これは伏見落城に際して,鳥居元忠以下の侍が割腹したときの血痕が残る板を用いたものと伝える。また当寺の裏山は俗に船山といい,毎年8月16日の大文字の夜,船形の火があげられて,盂蘭盆精霊会(うらぼんしようりようえ)の送り火が行われている。
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