武蔵七党(読み)むさししちとう

精選版 日本国語大辞典 「武蔵七党」の意味・読み・例文・類語

むさし‐しちとう ‥シチタウ【武蔵七党】

平安末期から南北朝期にかけて武蔵国本拠として活躍した武士団のうち、主な七つをいう。同族的性格をもち、いずれも武蔵国の国司の子孫が土着したものといわれる。七党には異説があり、数え方も一定しないが、野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西・私市(きさい)・綴(つづき)諸党の中から挙げられる。大武士団の成長をみない武蔵国ではこれらの小武士団が割拠し、それぞれ源氏の従者となっていった。武蔵の七党。
※田中本義経記(室町中か)四「むさし七たうあひぐして、尾張の国熱田の宮まではせむかふ」

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デジタル大辞泉 「武蔵七党」の意味・読み・例文・類語

むさし‐しちとう〔‐シチタウ〕【武蔵七党】

平安末期から室町初期にかけて武蔵国に存在した同族武士団。丹治たんじ私市きさい・児玉・猪股いのまた・西・横山・村山の七氏。

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改訂新版 世界大百科事典 「武蔵七党」の意味・わかりやすい解説

武蔵七党 (むさししちとう)

平安末期以降中世にかけて武蔵国に存在した七つの同族的武士団の総称。七党の数え方は一定せず,横山,猪俣,児玉,丹(たん)(丹治),西,野与(のよ),村山とする説,野与,村山の代りに綴(つづき),私市(きさい)を入れる説,西,村山を省いて綴,私市を加える説など種々の説がある。そのほとんどが武蔵守,武蔵介の子孫といわれ,横山党小野篁(たかむら)の子孫武蔵守孝泰,猪俣党は孝泰の子武蔵介時資,児玉党は武蔵介有道(ありみち)維能,丹党は丹治氏で代々武蔵守を相継,西党は武蔵守日奉(ひまつり)宗頼,私市党は武蔵権守(姓不詳)家盛にそれぞれ始まるという。野与・村山両党は桓武平氏平忠常の子孫である。これらの〈〉はその内部がさらに数十の小族に分かれて構成され,分散独立した所領に拠りながら対等な同族的結合を遂げ,戦闘にあたっては一つの組織,すなわち〈党〉として行動した。例えば児玉党は児玉,秩父,豊島,本庄,倉賀野,高尾,小代(しようだい),越生(おごせ)以下60余の小族から構成され,猪俣党は猪俣,男衾(おぶすま),岡部以下30余,村山党は村山,宮寺,金子,山口,仙波など10余から成っている。

 武士団の統合が進まず中・大武士団が成長しなかったことから,これら構成員はそれぞれが小武士団の首長として各個直接に清和源氏の家人となっていた。したがって戦闘に加わる場合には,義朝に従う兵として〈武蔵には(中略)児玉に荘太郎,猪俣に岡部六弥太,村山に金子十郎家忠,山口六郎,仙波七郎〉(《保元物語》)というように,党として参戦しながら,個別に名を連ねている。これは党の構成員が独立的で,それぞれに武家棟梁と主従関係を結んでいたことを示す。これと対照的なのは上総や常陸で,上総では上総介平広常が,常陸では佐竹氏が国内を統合して大武士団の首長となっていたため,党的武士団はみられない。保元の乱のときにも,上総に関しては〈上総には介八郎〉と広常1人が記載されているにすぎない。相模はその中間,すなわち三浦氏や大庭氏など中武士団による統合とみることができる。党結合は武蔵以外で紀伊湯浅党,肥前松浦党などにもみられる。室町期に入るとこのような党は名称を残してはいても実体は失われていく。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武蔵七党」の意味・わかりやすい解説

武蔵七党
むさししちとう

平安時代末期から室町時代初期に武蔵国を中心に分布していた中小武士団。丹治(たんじ)、私市(きさいち)、児玉(こだま)、猪俣(いのまた)、日奉(にし)、横山(よこやま)、村山(むらやま)の七つの同族的武士団をさす。「武蔵七党系図」には私市のかわりに野与(のいよ)がみえ、『貞丈雑記(ていじょうざっき)』などでは村山がなく、都筑(つづき)を入れている。平安時代末から鎌倉時代の史料には横山党、児玉党、丹(たん)党しかみえず、「武蔵七党」とあるわけではない。9世紀末から10世紀にかけての東国は「凶猾(きょうかつ)党を成し、群盗山に満つ」状態で、「僦馬(しゅうば)の党」など商業運送に携わる人々の反乱が相次ぎ、馬を自由に乗りこなす人々が現れていた。彼らは一方では秩父(ちちぶ)牧、小野(おの)牧、阿久原(あぐはら)牧などの管理者でもあり、「党類」をなして狩猟に従事し、私出挙(しすいこ)活動を通じ、百姓の牛馬なども手に入れ、しだいに富豪経営者となった。10世紀なかば、律令(りつりょう)国家はこれら有力者を「諸国兵士、諸家兵士」に組織し、群盗に備えるとともに軍事組織としても整備していった。彼らは現地では有力者として田畑開墾を進め、在地領主として成長し、しだいに専業武士となった。鎌倉時代の初めに源頼朝(よりとも)に従った武蔵の中小武士は、ほとんどがほぼ独立した同族武士団で、互いに結び合い、おのおのが党的武士団を形づくっていた。鎌倉幕府成立後、御家人(ごけにん)や北条氏の御内人(みうちびと)となる武士もみえ、相伝(そうでん)文書をもつ子孫もある。室町時代に「武蔵七党」と称され始め、血縁から地縁結合をもつ集団にかわり、白旗一揆(しらはたいっき)、武州(ぶしゅう)一揆へ発展していった。

[伊藤一美]

『渡辺世祐・八代国治著『武蔵武士』(1913・博文館/復刻版・1971・有峰書店)』『安田元久著『武士世界の序幕』(1973・吉川弘文館)』『伊藤一美著『武蔵武士団の一様態――安保氏の研究』(1981・文献出版)』

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百科事典マイペディア 「武蔵七党」の意味・わかりやすい解説

武蔵七党【むさししちとう】

平安末から鎌倉期,武蔵国を中心に活躍した同族的武士団の総称。横山・猪俣・野与(のよ)・村山・西・児玉・丹(たん)の七党といわれるが,七党の数え方には異説もある。→
→関連項目神川[町]騎西[町]九郷用水埼玉[県]白旗一揆武蔵国横山党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武蔵七党」の意味・わかりやすい解説

武蔵七党
むさししちとう

平安時代末期から鎌倉~南北朝時代に武蔵国を根拠にして活躍した7つの同族的武士団。七党は武蔵守や介の子孫の土着,武士化に由来するといわれるが,武蔵国造の子孫という説もある。また,七党の数え方も一定せず,村山党 (多摩,入間郡) ,横山党 (南多摩郡) ,猪俣党 (旧那珂郡) ,児玉党 (児玉郡) ,丹 (たん。丹治〈たじみ〉ともいう) 党 (秩父,児玉の両郡) ,西党 (多摩郡) ,野与 (のよ) 党 (南・北埼玉郡) とする説や,野与党の代りに私市 (きさい) 党 (北埼玉郡) を入れる説がある。鎌倉時代には将軍家の御家人となった。 (→ )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「武蔵七党」の解説

武蔵七党
むさししちとう

平安後期,武蔵国内に成立した中小武士団の総称。七党は室町時代以後の美称で,鎌倉時代は「武蔵の党々」などとよばれ,七つに固定したものではない。猪俣(いのまた)・児玉・横山・丹(たん)・野与(のよ)・村山・私市(きさい)・西・綴(つづき)などの武士団があり,これらの党は郷地頭クラスの武士が1郡から数郡規模でゆるやかに結合し,勧農などの地域開発や祭祀,軍事行動をともにした。後世に作られた「武蔵七党系図」は,それぞれの党が同一始祖から分岐派生した同族集団であることを強調しているが,実際は多様な氏族が婚姻を介して地域的に結合したもの。14世紀以後,高(こう)氏・上杉氏らによる支配が浸透し,南北の武蔵白旗(しらはた)一揆に再編された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「武蔵七党」の解説

武蔵七党
むさししちとう

平安末期〜中世にかけて武蔵国に存在した同族的武士団の総称
七党とは村山・横山・猪俣 (いのまた) ・児玉・丹・西・野与をいい,野与の代わりに私市 (きさい) を入れる場合もある。いずれも武蔵に土着した国司の子孫で,各党は数十の小族に分かれて独立しながら一つの党として結合し,大武士団には発展せず,のち源氏の家人となっていった。

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