武蔵野市(読み)ムサシノシ

デジタル大辞泉 「武蔵野市」の意味・読み・例文・類語

むさしの‐し【武蔵野市】

武蔵野

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「武蔵野市」の解説

武蔵野市
むさしのし

面積:一〇・七三平方キロ

都心から北西約二〇キロの地に位置する。東は杉並区、南は三鷹市、西は小金井市、北は西東京市・練馬区と接する。JR中央本線が南部を東西に走り、五日市街道(主要地方道杉並―あきる野線)が中央部を横断する細長い市域をなしている。標高五〇―六〇メートルのほぼ平坦な武蔵野台地上にあり、関東ローム層による水不足のため近世の開発以前は荒漠とした原野であった。ローム層下にある砂礫層の下部からの湧水である武蔵野台地最大の井の頭いのかしら池が、当市南東端から三鷹市にかけて存在する。

〔原始―中世〕

井の頭池周辺の台地に当市から三鷹市にまたがる井の頭池遺跡群(都指定史跡)がある(三鷹市の→井の頭池遺跡群。この遺跡群は旧石器時代と縄文時代早期および中期の遺跡からなり、そのなかに含まれる御殿山ごてんやま遺跡は縄文中期の大集落跡である。律令制下の当市域は多摩郡に含まれていたと推測される。市域の中世の様相を推測させるものとして板碑がある。紀年銘の判明する板碑は正和五年(一三一六)から文明五年(一四七三)までの一四基で、発見された地点は井の頭池周辺の吉祥寺南きちじようじみなみ一丁目・御殿山一丁目に計七基、吉祥寺東町一丁目の武蔵野八幡宮境内に五基、吉祥寺北町五丁目の伝鎌倉古道付近に二基となっている。板碑は移動がかなり容易であるため、出土地点は必ずしも造立地点とは限らない。しかし吉祥寺南町の五基は中世の墓域とおぼしき土壙内から出土し、付近ではほかにも同様の土壙が数個発見され、人骨を伴うものもあったということから、この付近に中世の集落が存在した可能性は濃厚である。吉祥寺東町・同北町の発見と伝えられるものは必ずしも集落の存在と結び付かないが、神社の境内や古道の傍らであり、中世の生活圏との関わりが想定される。

〔近世〕

近世初期の当市域とその周辺は幕府御用の萱を刈る札野(「ふだの」と称し、牟礼野・無礼ともいう)に指定され、また将軍や大名の鷹場になっていた。井の頭池の御殿山は三代将軍徳川家光が遊猟の際に休憩所を設けた跡という。当市域の開発には四代将軍徳川家綱の寛文年間(一六六一―七三)と八代将軍徳川吉宗の享保年間(一七一六―三六)の二つの時期がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武蔵野市」の意味・わかりやすい解説

武蔵野〔市〕
むさしの

東京都中央部,武蔵野台地にある市。 1947年市制。井の頭池付近の低地に先史時代の住居跡が発見され,古くから人が住んでいたことが推定されているが,本格的に開発が進んだのは近世になってからである。市域の大部分は武蔵野台地にあり,江戸時代は「札野」といい,幕府直轄のカヤ刈り場であった。吉祥寺地区は,明暦の大火で被災した江戸水道橋周辺の町人が移住して開拓したところ。西久保地区は,寛文2 (1662) 年の大火で焼出された芝西久保城山町の町人が開いた新田集落である。中央線が開通してからは,都心へ供給する野菜,果物などを栽培する近郊型農業地域となった。第2次世界大戦中にできた機械工場もあるが,全体的には住宅都市の性格が強い。井の頭自然文化園のほか大学などもあり,文化学園都市の機能をもつ。吉祥寺駅は交通の要地で,JR中央線と京王電鉄井の頭線が接続。駅前は大手の百貨店や専門店が並ぶ繁華街が形成されている。武蔵境駅は西武鉄道多摩川線の始点。面積 10.98km2。人口 15万149(2020)。

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