水口藩(読み)みなくちはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「水口藩」の意味・わかりやすい解説

水口藩
みなくちはん

近江(おうみ)国甲賀(こうが)郡などを領有した譜代(ふだい)藩。居城水口城(滋賀県甲賀(こうか)市水口町)。豊臣(とよとみ)政権期には中村、増田(ました)各氏の支配を経て長束(なつか)氏が領していたが、1600年(慶長5)長束氏滅亡とともに収公。1636年(寛永13)から1682年(天和2)まで城番が置かれた。1682年加藤明友(あきとも)(譜代)が石見吉永(いわみよしなが)から転封され当藩をおこし、甲賀郡内22か村と大和(やまと)国において2万石を領有した。1695年(元禄8)明英(あきひで)のとき下野壬生(しもつけみぶ)へ転封となり、かわって鳥居忠英(ただてる)(譜代)が入ったが、1712年(正徳2)ふたたび加藤氏(明英の子嘉矩(よしのり))が2万5000石で入った。嘉矩のあと明経(あきつね)、明煕(あきひろ)、明堯(あきたか)、明陳(あきのぶ)、明允(あきまさ)、明邦(あきくに)、明軌(あきのり)、明実(あきざね)と続き明治に至った。1838年(天保9)、42年には領内で百姓一揆(いっき)が起こっている。71年(明治4)水口県となり、同年11月大津県に合併、翌年滋賀県に編入

[藤田恒春]

『『水口町志』上下(1960・水口町)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「水口藩」の解説

みなくちはん【水口藩】

江戸時代近江(おうみ)国甲賀(こうか)郡水口(現、滋賀県 甲賀(こうか)市水口町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は翼輪堂。1682年(天和(てんな)2)、石見(いわみ)国吉永(よしなが)藩から加藤明友(あきとも)が2万石で入って立藩。子の明英(あきひで)は95年(元禄8)に下野(しもつけ)国 壬生(みぶ)藩移封(いほう)、代わって能登(のと)国下村藩から鳥居忠英(とりいただてる)が2万石で入封(にゅうほう)した。1712年(正徳(しょうとく)2)に忠英も壬生藩に移封となり、入れ替わりに同藩から加藤明英の子の嘉矩(よしのり)が2万5000石で入封した。以後、明治維新まで加藤氏9代が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で水口県となり、その後大津県を経て72年滋賀県に編入された。

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デジタル大辞泉プラス 「水口藩」の解説

水口藩

近江国、水口(みなくち)(現:滋賀県甲賀市水口町)を本拠地とした外様小藩。寛永年間、石見国からの国替えにより加藤明友が入封して成立藩主は元禄年間に一時鳥居氏となったが、正徳年間以降は再び加藤氏が入封、幕末まで藩主をつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の水口藩の言及

【水口[町]】より

…以後,水口城には年番制により5000石から2万石の旗本・大名がほぼ1年半ごとに在番した。しかし82年(天和2)石見(いわみ)国吉永の領主加藤明友が甲賀郡と大和国の一部2万石で入封,水口藩を立藩し,城番制は廃止された。藩主は95年(元禄8)鳥居氏に代わったが,1712年(正徳2)再度加藤氏が入城,2万5000石を領し,9代つづき幕末に至った。…

※「水口藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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