水運(読み)スイウン

デジタル大辞泉 「水運」の意味・読み・例文・類語

すい‐うん【水運】

水路による交通または運搬。河川・湖沼・運河などを利用する内陸水運と、海上における海運の総称。水上運送。水上運輸。水上交通。水上輸送。「水運の便がよい」
[類語]海運交通運送運ぶ輸送運搬搬送配送通運運輸郵送移送配達宅配発送逓送陸運空輸

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精選版 日本国語大辞典 「水運」の意味・読み・例文・類語

すい‐うん【水運】

〘名〙 水路による交通または運送。水上の運搬。
米欧回覧実記(1877)〈久米邦武〉一「米国の水運は、大河湖を仰ぎて其綱とし、他の支流に因て其紀となす」 〔後漢書‐虞詡伝〕

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改訂新版 世界大百科事典 「水運」の意味・わかりやすい解説

水運 (すいうん)

ここでいう水運は,海上交通すなわち海運と河川交通すなわち内陸水運をあわせ含んだ水上交通を指す。水運の歴史は古く世界の各地域によりその様相を異にする。日本,中国,ヨーロッパ,イスラム世界の水運の発達と展開を以下に記述する。なお,19世紀以降のグローバルな網の目をもつに至った海運業については〈海運業〉の項を参照されたい。

周囲を海に囲まれている日本では,古来水運,とくに海上交通が発達したが,東国よりも,海岸線の屈曲が多く良港に恵まれた西国地方において,その依存度が高かった。

古代における水運を系統的に知ることのできるのは,《延喜式》に記される平安京への海路行程と〈諸国運漕雑物功賃〉である。それによると,臨海国のうち東海道では参河,遠江,東山道では出羽,北陸道では若狭,越前,加賀,能登,越中,越後,佐渡,山陰道では因幡,山陽道では播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,南海道では紀伊,淡路,讃岐,伊予,土佐,西海道大宰府管内では筑前,壱岐,対馬の諸国が京進物を海上輸送しえたことが知られる。ただし北陸諸国の中で,若狭国以外の国は敦賀津から陸路で近江国の塩津に出て,そこから琵琶湖を湖上輸送して大津に至り,若狭は陸路で近江国の勝野津に運びそこから大津に向かった。西海道の場合は,壱岐,対馬は大宰府に海上輸送し,他の諸国のものも大宰府に集めそこから海路にて平安京に向かった。臨海国でなかった美作国も,備前国の方上津(かたかみつ)を利用した。西国諸国から海上輸送された物資は,平安時代には与等津(よどつ)(現在の京都市伏見区淀付近)で陸揚げされたので,与等津は平安京の外港としての役割を果たした。奈良時代までは,大阪市の上町(うえまち)台地西方にあった難波津(なにわづ)がもっとも重要な港湾であり,遣唐使の出帆港であり,また外国からの使節もここに到着した。大宰府の外港は娜大津(なのおおつ)(那津(なのつ))であり,付近には蕃客を接待する鴻臚館(こうろかん)(筑紫館)が設営された。瀬戸内海の航路の推定は《万葉集》にみえる遣新羅使によまれた港津地を結ぶことによって手がかりとすることができる。そのおもなものによると大伴の三津-武庫浦-明石門-備中の多麻浦-備後の長井浦-安芸の風速(かざはや)浦-周防の麻里布(まりふ)浦-周防の熊毛浦-佐婆津(さばつ)-筑紫館となり,山陽道の沿岸の航路をとっている。また,斉明天皇の百済救援軍は大伯海(おおくのうみ)(岡山県邑久郡の海)から伊予の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮(いわゆのかりみや)に寄って九州の娜大津に至るという瀬戸内海の南寄りの航路をとっている。

 国司が任地の国に赴任する際にも海路を利用することを部分的に認めている。例えば,726年(神亀3)の太政官処分では,西海道の国司の五位以上の者を除いては船の使用を許している。《延喜式》では,新任国司の赴任には,山陽道の備前以西および南海道・西海道は海路をとることを定めている。国司が執務した国府においても臨海国においては外港をもっていたものと推定され,例えば遠江国の今浦(いまのうら),相模国の国府津,土佐国の大津などをそれにあてることができる。

 古代の河川交通に関する史料は少ないが,出羽国の最上川については,陸路の駅に相当する水駅(すいえき)が置かれ,各水駅には船が備えられていた。河川の港としては,上にあげた与等津のほか,泉木津(現京都府木津川市,旧木津町),宇治津,山崎津(現京都府乙訓郡大山崎町)など淀川水系の諸港が知られる。一方,大和川の水運も利用されたとみられ,難波と飛鳥を結ぶ交通路の一つであった。
執筆者:

国衙領の減少,荘園制の発展にともない,水運による輸送物資は官物から荘園年貢に転換していった。律令制下,官物の水上輸送は国ごとに定められた一つの国津(くにつ)から発送し,さらに送納先は奈良ついで京都の中央政府に限られるという単純なものであった。しかし荘園制下では,多数の荘園がそれぞれ最寄りの港々から,京都,奈良のほか各地に散在する多数の荘園領主に輸送するという複雑なものとなった。ここに地方のみならず中央でも荘園領主の年貢受入れのための港が発達した。在京荘園領主の淀・鳥羽,奈良社寺の木津,伊勢神宮の大湊,延暦寺の三津浜,日吉神社の坂本などはその例であった。京都への輸送コースも前代とほとんど変化なく,太平洋岸,瀬戸内諸国,九州の年貢物は淀川をさかのぼり,淀または鳥羽で陸揚げされ,奈良にはさらに木津川を上り,木津で陸揚げされた。北陸道および山陰道の一部からは越前敦賀ないし若狭小浜までが船,それより琵琶湖北岸の塩津,海津または木津,今津まで陸送,そしてふたたび水路で大津まで運ばれた。もっとも主要なる幹線航路は,北九州-瀬戸内海-淀川であったが,幕府の成立以後は,全国から鎌倉に多くの船が集まり,鎌倉は海運の一大中心地となった。1263年(弘長3)鎌倉に向かう途中,遠州灘で鎮西の貢納船61艘が遭難した事実にその一斑がうかがえる。

 主として鎌倉時代後半以降,荘園制の衰退と商品流通の発展にともない,輸送物資もしだいに商品が主要なものとなり,とうぜん年貢船に代わって商船の活躍がはげしくなった。1445年(文安2)1年間に東大寺領兵庫北関に入った商船の総数は1903隻に及んだ。さらに中世の流通商品は米などの主食のほか,塩,魚類,木材,苧(からむし)などの衣食住生活必需品をはじめ多方面にわたり,中でももっとも重い材木は海または河川等の水路輸送が不可欠であった。米や魚類等は地域的限定が困難であるが,塩は主として瀬戸内,苧は越後等の北陸から運ばれた。それらの流通商品量も年とともに増え,兵庫北関の1445年1年間の入荷量は塩10万0659石,米2万4880石,材木3万7205石その他の多きに及んだ。

 商品輸送の発達にともない,港はこれまでの貨物の発送,揚陸から,さらに売買その他の機能を帯びるようになり,輸送や販売に携わる問(とい)を中心にさまざまな業者が活躍していよいよ繁栄し,中世の代表的都市となるものも少なくなかった。淀川の淀,瀬戸内海の摂津兵庫・和泉堺・播磨室・備後尾道,北九州の筑前博多,東海の伊勢桑名・大湊,琵琶湖の近江大津,日本海の越前敦賀・若狭小浜などは,その尤(ゆう)なるものであった。このような海運の発展の蔭には,輸送技術の発達が存在した。鎌倉時代までは,船の大きさも前代とあまり変りなかったが,室町時代になると船も大型化して,千石船もかなり一般化し,準構造船より構造船へと移行しつつあり,磁石の使用も知られるようになった。これらを背景に船の賃貸その他海上運行を取りきめる海法が自然発生的に生まれたが,室町末成立のいわゆる《廻船式目》は当時のヨーロッパの海法をしのぐ高度の内容をもつものとされる。こうして中世の水運は徐々に発展したが,その反面それを阻む障害もまた山積していた。中世には戦乱の多かったことがまず指摘されるが,海上の危険度も船舶の発達により,平安時代に比すれば低下したものの,遭難はまだ日常的であった。海賊の活動もまた著しく,中世の法は海賊による被害を遭難と同視して不可抗力なものとしている。そのほか経済的障害として港々に設けられた関所があるが,室町中ごろ淀川に一時660の新関が濫立されるということがあった。これらの障害の多くが克服され,水運が一段と発達するには,織豊政権の登場,さらには江戸幕府の成立を待たねばならなかった。
執筆者:

中世期に瀬戸内海や北国の海運は相当発達しすでに千石船も存在したが,全国的な海運網が形成されるのは近世に入ってからである。豊臣秀吉は刀狩令とともに海上賊船禁止令を出し,諸国の海賊衆をその支配下に入れ,海運の阻害要因の除去に努めた。小田原征伐や朝鮮出兵に際しては伊勢湾や瀬戸内の水軍を動員した。一方,統一政権の形成に応じて遠隔地間の物資輸送が盛んとなり,港湾都市の船持豪商はこれに従事した。文禄・慶長前期(1592-1600)北国の船持豪商は秀吉の命により伏見城用材を秋田より敦賀に廻漕し,豊臣氏蔵米を津軽より南部や小浜に運び販売している。瀬戸内の豪商もまた九州や瀬戸内沿岸の各地から上方に物資を輸送し,統一政権の経済的需要を満たした。

 江戸幕府の成立によってかかる全国的交易は活発となり,国内海運はいっそう盛んになり,質・量とも前時代にみられぬ飛躍的発達をみる。とくに諸大名が参勤交代で江戸に集住するようになると日用品の需要が高まり,大坂から江戸への日常消費物資の供給を目的とする江戸・大坂間の海運が開かれた。木綿,酒,油,しょうゆ,小間物などがおもな廻漕物資であった。米は大名が国元より江戸に運んでいたこともあり,商品として廻漕されるようになるのは寛文期(1661-73)ごろからである。上方・江戸間の海運にあたったのは菱垣廻船樽廻船で,菱垣廻船の起源は1619年(元和5)に泉州堺の商人が大坂より日用品を江戸に廻漕したのに始まるといわれる。ついで27年(寛永4)大坂に菱垣廻船問屋が開業し,菱垣廻船の仕立てを行い,御城米と一般商人荷物の江戸向輸送にあたらせるようになった。菱垣廻船は菱垣廻船問屋の手船や紀州・大坂周辺などの雇船であったが,正保期(1644-48)になると伝法船が酒荷を積みはじめ,船足が速いので小早と称された。これがのちの樽廻船のはじまりである。上方・江戸間海運が頻繁化するにしたがい海運秩序が乱れてきた。これに対応して1694年(元禄7)江戸十組問屋(とくみどんや)が結成され,さらに大坂にものちに大坂二十四組問屋となる大坂十組問屋ができ,両問屋の支配下で輸送が行われるようになった。ところが1730年(享保15)酒店組が十組問屋より独立し酒樽専用の樽廻船を仕立てるようになり,以後菱垣・樽両廻船に積み荷の奪い合いが起こり樽廻船優勢のうちに展開し,幕末には両廻船の差は実質的にみとめられなくなった。

 近世海運のなかで最大の輸送品は数量,地域的広がりにおいても米であった。近世初期,江戸台所米の国元からの輸送で始まった諸藩の蔵米海上輸送はしだいに換金用蔵米の江戸または大坂への大量輸送となり,江戸・大坂を軸とする二元的輸送体系が形成されるようになった。各地にみられる築港,港の改修,廻米運送路の開拓,藩の船手機構の整備などはそれを実現するためであった。1671年(寛文11),72年の河村瑞賢による東廻海運西廻海運の刷新事業はこうした幕藩の海運開拓をふまえてのものであった。彼は奥州信達地方の幕領米を江戸に廻漕するにあたり,太平洋沿岸を南下し,房総半島を迂回して江戸に達する東廻航路と,出羽村山地方の幕領米を送るのに日本海沿岸を西下し下関を経て大坂に至り,さらに紀伊半島を迂回して江戸に達する西廻航路とを開いた。その際,海運の安全を図る諸施設を設け,廻漕船を幕府直雇とするなど刷新的方策をもって江戸廻漕を行い,その後の幕領米廻漕の基本方式となった。

 両航路の完成は全国的海運網の成立で,当然ながら米以外の特産物,上方下り荷などの海上輸送をも促進することとなった。本州の北端下北半島の檜材の上方輸送が最盛期となるのは寛文期で,もっぱら越前新保などの北国船の自己荷として運送販売された。近江商人衆の調達船荷所船は越前敦賀を拠点に北国・松前方面に進出し活躍した。しかし,宝暦~天明期(1751-89)の近江商人の後退にともなって北国船は大坂と蝦夷地を結ぶ買積船の北前船として活躍し明治中期にわたって北前船時代を築いた。一方,大坂・瀬戸内海方面の千石船の弁財船は西国各地はもとより日本海側,太平洋側にも進出し幕府・諸藩の米や銅などの輸送に従事した。瀬戸内の十州塩は全国各地に配給されたが,塩廻船によるところが大きかった。すでに元和年間(1615-24)に江戸に入津しているが,享保期(1716-36)ごろになると江戸入津塩はほとんど生産地から塩廻船で直送されたという。大坂の大都市経済と直結した備前南児島地方の船稼衆は自船で瀬戸内各地で魚類を仕入れ大坂に販売していた。このように近世中後期は地方海運も盛んとなるのであるが,奥州八戸湊は長い間石巻船や江戸・浦賀船に依存し江戸に結びつき,地元の八戸廻船が台頭してくるのは幕末になってからであった。このように海運による商品流通は盛んであったが,海運は近世を通じ蔵米輸送が主で幕藩の支配をうけていた。
執筆者:

物資運送の機関としての水運がもっとも発達したのは近世であった。太閤検地による石高制の成立以後,各地に分封された諸大名は,年貢を米に統一したため,領内よりの年貢米の収納や城下町市場での販売,あるいは中央市場である江戸・大坂での販売のため,大量の年貢米輸送が必要不可欠のこととなった。この年貢米輸送を担うのが水運であったので,幕府をはじめ諸大名は水運の発達に力を入れた。とくに内陸水運(河川・湖沼水運)の開発は盛んで,仙台藩による北上川改流や幕府による利根川水系改流は,その代表的なものである。水運路の開発と並んで,内陸水運の湊である河岸(かし)の創設も行われた。利根川中流の八町河岸や権現堂河岸は幕府代官の手によって年貢米輸送のために取り立てられた。関東では,年貢米輸送を最大の契機として開発された水運路と輸送機構である河岸は,1690年(元禄3)に幕府の統一的な吟味を受けて一応の完成をみるが,同時に水運は年貢米輸送ばかりでなく一般商荷物輸送等も担当するようになり,既成の河岸以外の所に新河岸が発生する。既成の河岸,とくにその中心である河岸問屋は,水運の独占を望んで幕府・領主権力と結び,運上金上納を代償に新河岸・新問屋禁止の特権を獲得する。明和・安永期(1764-81)幕府による関東全域にわたる河岸問屋株の設定公認は,既成河岸独占体制の完成を示すものであった。しかし,それでもなお農村内から生まれる商荷物輸送の要求に押されて新道,新河岸,新問屋は出現し,既成河岸問屋はこれとつねに抗争を繰り返しながら衰えていった。

 また,水運は物資輸送が中心であったが,同時に旅人も運んだ。最初は荷物に付随して来る荷主・宰領が主であったが,そのうち一般旅人も乗船するようになり,旅人専用の乗合船も生まれた。淀川の三十石船,利根川の境,関宿船などがそれである。また,遊覧船も生まれ,利根川下流の〈木下(きおろし)茶船〉は,香取・鹿島・息栖(いきす)の3社をめぐり,ときには銚子磯めぐりまで足をのばす遊客を乗せる貸切遊覧船であった。これは江戸の人士に人気があり,文化・文政期(1804-30)には多くの旅人でにぎわった。水運の発達は沿岸の産業にも刺激を与えた。利根川水系に銚子・野田等多くのしょうゆ醸造業が生まれたのもその一つである。水運はまた目に見えない文化をも運んだ。利根川流域への江戸人士の来遊,松尾芭蕉,小林一茶,高田与清,渡辺崋山,平田篤胤らの来遊は流域文化圏の形成を刺激し,その中から赤松宗旦,伊能忠敬,下総国学の宮負定雄(みやおいやすお)などの学者が生まれた。水運は明治期に入っても運河建設等があって盛んであったが,明治政府の河川治水政策の転換によって水運路に大きな打撃を受け,鉄道の発達によってさらに衰え,トラック輸送の発達によって完全に衰退した。
執筆者:

中国の東半は,ほぼ秦嶺山脈から淮河(わいが)に至る線で南北に異なる自然環境をもつ。降水量が少なく黄土の台地や沖積平野の広がる北方では水路の発達が限られているのに対し,南方は大河川やその支流が網目状に発達する。交通においても〈南船北馬〉という表現にみられるように,南方では船が主要な交通手段であった。南方の交通が水路によっていたことは先秦時代からよく知られ,また軍事にあたっても南方では水軍の占める役割が大きかった。しかし全国的レベルで水運が意味をもつのは,南北朝時代,南方の開発が飛躍的に進んでからで,隋・唐に至って一つの画期を迎える。広域的な経済発展のためには,各地域の特性に応じた発展と,地域間の活発な物資の流通が不可欠であるが,陸運に比べて水運は重量物の大量輸送に関しては,はるかに効率的である。中国では南方の沖積平野,とくに長江(揚子江)中下流域がもっとも豊かな農業生産力をもつが,この経済力を開発し,それを伝統的に北方に中心をもつ政治力,文化力と結びつけることにより,全国統一の力となしえたのが隋・唐時代であった。その背景となったのは,長江中下流域と,これを北方につなぐ大運河の水運であった。これより南方の物資を北方へ輸送する漕運は,国家の死命を制する重要なことになり,水運の支配をめぐる争いは全国統一につながった。五代以降に,内陸奥地に位置する長安が,全国中心としての比重をしだいに失い,大運河沿いの開封が全国の中心としての機能を発揮するのも,水運との関連が深い。また南方でも蘇州や杭州など〈水の都〉が繁栄した。これ以降,中国に発達した大都市はすべて水運と結びつく。

 宋代には内陸水運が一つのピークを迎えるが,やがて海外との関係で東南海岸の貿易港が発達すると海運が大きな意味をもつようになった。元代には,内陸水路の疲弊も加わって,海運は東南沿海部だけではなく,南北漕運の上でも中心になる。明・清時代には,ふたたび大運河も利用されるようになり,海運とあわせて水運の絶頂期であったといえよう。アヘン戦争以後,沿海各港が開港してゆくにつれ,内陸でも大河川の主要な港湾に開港の波が及ぶ。とくに長江沿岸では南京,九江,武漢などが開港し,内陸水運も国際的なものとなった。しかし鉄道と道路の発達は,従来水運の果たしてきた役割を奪い,とくに旅客輸送については沿海の島嶼間等限られた地域で利用されるだけになった。ただ貨物輸送では,国際貿易にともなう遠海航路輸送の増加で,輸送キロトン量からみれば鉄道に匹敵する利用があり,年々むしろ増加している。1981年,貨物総運搬量に対する水運の割合は17.9%(うち遠海運輸1.8%,内陸水運13.4%)に対し鉄道が46.5%,自動車が30.9%あるが,キロトン量でみれば水運44.3%(うち遠海運輸31.2%,内陸水運4.9%)に対し鉄道49.2%,自動車2.2%となるのである。

 内陸水運で今日でもよく発達しているのは,長江とその各支流,東北の黒竜江,華中の淮河,嶺南の西江などで,大運河も最近ふたたび改修が加えられ,地方的な輸送に活躍している。黄河は河川の大きさに比して水運は発達せず,わずかに部分的に用いられるのみである。

大洋を横断航海するような技術の開発される以前に,海上交通路の発達するところは,地中海や瀬戸内海のような内海や,半島に囲まれた湾域,あるいは島嶼群が分布し短距離間に良港が連続して得られるような列島や沿岸地帯である。また外海の航海は危険が多く,大型の船舶や進んだ航海技術が要求される。中国で水運はきわめて古い時代から発達しながら,河川・運河の内陸水運に限られ,海運が交通体系の中で大きな地位を占めるのが遅れたのは,基本的に大陸的な国土の広がりをもつために,上記のような条件を備える海域が少ないだけではなく,このような条件をもつ海域の運輸が活躍するような社会的条件の成立が遅れたからである。

 中国は北に山東半島,遼東半島で囲まれる渤海湾があり,南に浙江より広東に至るリアス海岸,島嶼群をもつ海域がある。その中間は大河川の沖積土によって三角州が絶え間なく成長し,沿岸航路や中継の港湾の設定は難しいが,特別な船を造れば航海は容易となる。これら3種の海域のうち前2者は外国と接していることにより,海上交通は同時に外国との商業交易,文化交流をもたらすのに対し,後者は国内交通における役割が期待されよう。中国の海運の歴史は,この二つの方向への交互の振幅であったといえる。

 政治・経済の中心が北方にあった漢代には,長江以南,東南海岸地帯との交流は実質的な意味をもたない。しかし南海の珍奇な物や,異質な文化をもつ地域への関心や知識が文献上で確認できるのは,限られた範囲ではあっても文化交流が間接的に進んでいたことを示す。三国時代の呉は整備された水軍をもち,台湾(夷洲)や南海のみならず,遼東半島にまで到来している。古代の日本との交流もおそらくこのころ,急速に深まっているものであろう。南北朝時代にはさらに南方の開発が進み,長江下流の都市から東南海岸を経て広州,交州(ベトナム)へ至るルートは,頻繁に船舶の往来があったと考えられる。これによって番禺(広州)は嶺南の中心都市として,独立した勢力圏をもって繁栄した。

 隋・唐になり全国が統一され国土が拡大すると,このルートはより国際色の強いものになる。東南アジア・インドのみならず大食と呼ばれたアラビアからも商人が訪れ,広州は中国の南の門戸となった。そして広州より北に至る沿岸には,潮州,泉州,福州,温州,明州などの港湾都市が発達し,東南海岸が江南東道(浙江,福建)として行政的に独立したのもその力によるものであろう。しかしこれらの交易も,南方の都市開発には大きな影響を与えても,全国の経済を左右するようなものではなかった。むしろ法顕,義浄などによる仏教伝道,あるいはより地域的レベルにおける文化交流のもつ意味を重視すべきであろう。また唐代には渤海湾から朝鮮半島にかけての海路も発達し,山東半島北側の登州や萊州を基地に交流が進んだ。宋代に注目すべきは海外貿易を政府の専売とし,財政の中にくみこんだことである。唐では広州にしか置かなかった市舶司を,泉州,明州,密州などにも置き,その収入は国庫の重要な部分を占めた。とくに南宋は,臨安(杭州)に都を置き,広州,泉州などの都市に背後を支えられていたといえよう。

 南方の糧税を北方へ輸送する漕運は唐より宋にかけては大運河によっていた。しかし南宋以来の長い混乱期に運河は荒廃し,沿線の治安も悪く,安定した漕運を維持できなくなっていた。南宋を滅ぼした元の宰相バヤン(伯顔)は,当時発達してきた航海技術を用いて海路を漕運に用いることを考え,1282年(至元19)とくに平底の船(のちの沙船,すなわちジャンク)を造らせて糧米を北方へ運んだ。時期により若干の変更はあるものの,そのルートは長江デルタを横断して海へ出,沿岸を北上し,山東半島を迂回して直沽(天津)へ至るものであった。漕運量は毎年増加し,漕運の可否が国家財政の死命を制するようになり,海運は交通の中でもっとも重要なものになるとともに,海岸の港湾都市が発達した。とくにこれまでは小港であった山東半島の都市や小村であった直沽が大都市に成長した。しかし元末には江南で張士誠の反乱が起こり,漕運も1363年(至正23)を最後にとだえてしまい,同時に元も滅亡するのである。

 明初は都が南京に置かれたため,南より北への漕運はみられなかったが,北方への軍糧輸送に海運が利用された。とくに遼東方面への輸送は都が北京に移ってからも続けられた。北京に都が移されてから再開された海運による漕運は,発達した官僚制をもつ国都を養うに十分ではなく,内陸水運の利用も始まる。運河の整備も行われ,海運は荒天の危険性,倭寇の跳梁などの弱点をもつことから内陸水運の再評価が強まり,黄河と御河をつなぐ会通河の改浚が終わると内陸水運が主流となり,1415年(永楽13)には海運が廃止されてしまう。清になっても漕運は内陸水運を利用したが,海運の復活を求める声も強く,道光年間(1821-50)に正式に復活する。海運には新しい汽船が用いられたこともあったが,まもなく漕運そのものが廃止され,国内の貨物輸送を税糧輸送が大部分を占めるという形は,生産物の相互流通という近代的形態にとってかわられる。

 一方,華北華中の沿岸で漕運が盛んであったころ,東南海岸の海路も唐・宋を通じて繁栄していた。モンゴル帝国は東アジアより西アジアに至る広大な版図をもっていたため,南海経由の海外との接触交流は飛躍的に進み,マルコ・ポーロをはじめとするヨーロッパ人の来訪もあると同時に,明の鄭和(ていわ)にみられるように,中国人も南海へ進出していった。これは東南アジアの沿海都市に中国文化の根を下ろすことになり,またこうして太くなったルートを通じて中国が西洋の近代化の波を受けることになる。さらに東の朝鮮や日本との定期的貿易も行われ,東アジアが海によって結ばれた一つの世界を形成しつつあった。

 アヘン戦争後の南京条約で,広州,厦門(アモイ),上海等の港が開港し,それにつづいて東南海岸や山東半島の各港も開港されると,中国の沿海は直接外国の海運と結びつけられ,中国自身1872年(同治11)輸船招商局を設置して独自の海運業を興そうと努力したものの,列強の圧力には抗すべくもなかった。民国初年で中国沿海で操業する船舶の量は,外国のものが中国の4倍以上もあった。また渤海湾は不凍港をもとめるロシア,日本など列強の争うところとなり,東北三省への侵略とともに中国の手から失われてしまう。解放後になって,これらの海はすべて中国に戻され,沿海の海運も再開されたが,鉄道,内陸水運に比べればその地位は低い。
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地中海における海上交通は太古から盛んであった。エジプトではすでに前2千年紀からナイル川から海へ船の活動が広がっており,新王国(前1552-前1070)になると船に関する考古学的資料も多くなる。同じころクレタの船は特産の陶器を東地中海一帯に運んでいた。前9世紀にはフェニキア人,ギリシア人の活動が活発になった。このころすでに船体が細くオールでこぐ軍用船とずんぐりしていて主として帆を用いる商船との分化が生じていた。水中考古学の発達により,オリーブ油やブドウ酒を入れたと思われる壺(アンフォラ)や青銅器,地金,石臼などが水中から引き上げられており,大量の物資の輸送が行われていたことが推察されている。ローマ時代の商船には2種がある。一つはテベレ川をローマまでさかのぼることのできる小型船で,3000の壺を積めるもの。数の上ではこれが圧倒的だったであろう。第2は1万もの壺を運べる大型のもので,アレクサンドリアからオスティアまで穀物輸送に用いられた。100t以上の大理石の円柱や石塊を運んでいた沈没船が何隻も発見されている。このように活発に地中海の諸地域を結びつけていた海運は〈西ローマ帝国〉崩壊後しだいに衰退した。7,8世紀にイスラム勢力が地中海に進出すると,ビザンティンを中心とした東地中海商業圏とイスラムの支配する西地中海商業圏が形成された。

 11世紀にノルマンが南イタリアに進出したことによって,地中海の商業的統一が回復した。それ以前からベネチア,ジェノバなどイタリア都市の船はそれぞれ活発な行動を行い,やがて地中海全域で大きな勢力を得た。コンスタンティノープルやシリア,エジプトの港でコショウをはじめとする香料や薬品,染料,工芸品などを輸入して北西ヨーロッパへ運ぶ東方貿易が成立した。ヨーロッパ側からは初め木材や金属,奴隷,のちにフランドル産の毛織物が輸出された。香料のような軽量で高価な商品の輸送には,しばしばオールでこぐ軽量快速のガレー船が用いられた。これは古代以来の伝統をもつ軍用船であるが,商船としても用いられた。重い商品は帆船で輸送された。最近の研究では香料のほかに塩,ブドウ酒,穀物,皮革など日常生活に必要な品物が大量に輸送されていたことが指摘されている。

 北ヨーロッパでは北海とバルト海において海運が発達した。8世紀からスカンジナビアバイキングの活動が活発となり,西は大西洋岸,東はドナウ川から黒海,ドニエプル川からカスピ海に及ぶ広範囲な通商・略奪行為を行った。12,13世紀にはドイツのハンザ商人ハンザ同盟)が進出した。穀物,材木,毛織物,塩,魚,毛皮などが大量に輸送されたが,地中海の場合に比べて奢侈品の割合が低かったとされている。北海の荒波に耐える頑丈な構造,高い舷側と船尾舵をもつハンザのコッゲ船が活躍した。13世紀末にそれまでモロッコのイスラム勢力の支配下にあったジブラルタル海峡キリスト教徒側の手に落ち,地中海と北海を結ぶ航路が成立した。東方物産がイングランドやフランドルへ運ばれ,逆に毛織物や原毛が地中海へ運ばれた。14世紀には黒海からバルト海に至る広大な海運網が形成されることになった。造船技術においても南北の交流が進み,コッゲ船の影響が地中海に及び,船尾舵が広く用いられるようになった。15世紀のジェノバでは1000トン近い大型船を建造し,染色の際の媒染剤として需要の多いミョウバンをキオス島から直接フランドルへ輸送した。また200t以上の積載量をもつ大型のガレー商船も生まれたが,数が多くもっとも重要であったのは40~50トンから70~80トン程度の帆船であった。〈大航海時代〉の主役となったのは,これらの小回りのきく帆船である。インド航路やアメリカの発見によってヨーロッパの海運は大きく発展したが,北海と地中海を結ぶ伝統的な交易網もなおその重要性を失わなかった。
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16世紀における北西ヨーロッパ最大の中継貿易港アントワープが,オランダ独立戦争の渦中で1585年スペイン軍に占領され港の入口がオランダ側に閉鎖されると,中継貿易の中心はオランダのアムステルダムに移った。17世紀前半オランダの海運と貿易は驚異的発展を遂げ,その商船隊はバルト海,北海から南の地中海,レバント,さらにアフリカ西海岸,カリブ海域,北アメリカ,東アジアにまで進出し,オランダはまさにヨーロッパの海運業者になった。オランダの海運と貿易の優位に対し,1651年イギリスは航海法を発布し,さらに3次にわたる英蘭戦争(1652-74)を挑んだ。その結果,ヨーロッパの海上覇権はイギリスの手に移り,アジアにおいてポルトガルを抑えてコショウ貿易を独占したオランダの東インド会社は,イギリスの東インド会社の活躍に敗れた。なおアジアからの輸入商品も17世紀後半にはコショウから茶,コーヒーに変わりつつあった。17世紀の新大陸貿易においては,メキシコ,ペルーの銀産出量の減少によりスペインの銀船隊はしだいに衰え,オランダもブラジル植民地を失い,代わってイギリスが本国(織物),アフリカ西海岸(奴隷),新大陸(タバコ,木材,砂糖など)の三角貿易を展開した。18世紀前半イギリスはフランスとの激烈な植民地獲得競争に勝利を収め一大植民地帝国,いわゆる大英帝国を建設した。

 イギリスを先頭とする欧米諸国の産業革命が生んだ巨大な工業生産力,北アメリカの農業発展,世界の隅々に及ぶ新輸出市場の開拓,ヨーロッパ諸国からの移民の急激な膨張などによって資本主義的世界市場が形成され,ヨーロッパの貿易額は1800-70年のあいだに5倍に伸び,人と商品の海上輸送は激増した。激増する海運需要に対応するため,より迅速で定期的な運航,航続距離の延長,より大型で安全な船舶の建造,スエズ運河,パナマ運河開設による航路の短縮,ことに帆船から汽船へ,木造船から鉄船さらに鋼鉄船への転換が生じた。このような海上輸送における画期的な変革をリードしたのは主として最初の工業国家イギリスであった。19世紀半ば,イギリスは世界貿易額の4分の1を占め,イギリスの海運は世界を支配した。1840年イギリスの〈イギリス・北アメリカ郵便輸送特許汽船会社British and North American Royal Mail Steam Packet Company〉(現,キュナード汽船)が大西洋横断定期便を,42年〈P&O汽船〉が地中海・スエズ地峡経由でインドのカルカッタへ汽船を就航させた。しかし初期の汽船の推進機関は出力が弱く,燃料炭の費用も高くついたので,19世紀中葉アメリカ,イギリスで帆船は技術的に最高の発展をとげ,スクーナー船やクリッパー型の大型快速帆船が盛んに使用され,帆船から汽船への移行は緩やかに進行した。P & O汽船はスエズ運河開通の1869年から汽船によるアジア航路を開設し,大西洋横断航路も1860年代にはしだいに帆船から汽船に変わり,19世紀末に至って帆船はほぼその役割を終えることになる。
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河川交通

ヨーロッパにおいても,河川を輸送路として利用することはすでに古代社会にみとめられるが,中世以降農業が活発になり,かつまた都市を中心とする経済が発達すると,その利用はますます盛んになった。とくに木材,穀物などのいわゆる嵩高品の輸送は,陸上輸送では不可能か,あるいは多大の費用を要したので,これらは必然的に水路輸送にたよらざるをえなかった。したがってまた,都市は,生活物資の供給に便利な河川や海岸に沿った地点においてのみ,発展することができたのである。

 いまヨーロッパ大陸を,イベリア半島の南西端から北東に向かう線で南北に二分すると,北側の地帯は南側の地帯に比べて海に向かっての勾配がゆるやかである。そしてこの北側の地帯では,河川が内陸への海の延長として重要な役割を果たした。もちろん南側地帯でもドナウ川をはじめとする河川は東に向かい,黒海に流れ込んではやくから利用されたが,17,18世紀に集中的に利用されたのは北側地帯の河川であった。

 北ヨーロッパのなかでも,イギリスにおける水運と大陸におけるそれとは,自然的条件の差異により異なる。前者では河川は後者に比して短く,水路としての条件にはめぐまれていなかった。ここではむしろ沿岸航路が大きな意義をもっており,水運の活発な展開は内陸運河の建設によって実現した。大陸では遠距離を流れる河川が多く,内陸における貨物の交易にはやくから利用された。18世紀以降広範な河川・運河網が建設されたが,大陸における水運は,必ずしも運河を前提とせず,河川による輸送のなかにその特徴をみることができる。

 水路として利用された河川は多いが,その代表的なものをあげれば,セーヌ川ライン川エルベ川オーデル川ドナウ川などである。これらの川では,18世紀には数十トン,ときには100トン以上の船が使用された。18世紀の後半,ベルリンは巨大な人口をもつ都市に発展したが,この人口増加は,ハーベル,シュプレー両川による廉価な輸送なくしては考えられなかった。18世紀末,ベルリン,ポツダムおよびシュパンダウを結ぶ三角形の地域には18万人の人口が存在した。この地域の1人平均年間生活物資消費量を約200kgとしたとき,全人口の消費量3万6000tは,当時この周辺の河川で稼働していた平均積載能力50tの船700隻によって,はじめて供給されえたのである(F.W. ヘニングの推計による)。

 河川はまた木材の輸送に重要な役割を果たした。19世紀においても,ドイツ南部のシュワルツワルトの木材は,ライン川を用いて,53個のいかだに組み450人のいかだ師が乗り組んだ全長230mに及ぶいかだ流しによって,マンハイムからネーデルラントまで運ばれた。18世紀のマクデブルクからハンブルクに向けて行われた建築材,船材,燃料用木材などの取引も,エルベ川による便利な,かつ廉価な水路輸送に依存したものであった。
運河
執筆者:

イスラム世界を広く覆うほぼ共通した自然地理的条件として,海とステップ,砂漠があげられる。アラブの大征服以後,砂漠地帯ではラクダによるキャラバンが発達する一方,海上とくにインド洋と地中海では大規模な船団編成による交通運輸と貿易のネットワークが張り巡らされて,イスラム世界に住む人々の足として,また商売や情報伝達の道具として広く利用された。海運は陸上運輸のキャラバンに比べると,大量の積載能力をもち,かつ遠距離間の輸送を直接的に廉価に行いうるという点で,人・物資・情報等の広範な交流と融合関係を形成するうえに大きな役割を果たしたといえる。

 イスラム以後,東地中海ではビザンティン海軍の活躍によってムスリムの地中海進出は難しかったが,コプト教徒,ユダヤ教徒,シリア系ギリシア人との軍事的・商業的協力関係が成立するにつれて,地中海の海運は徐々に開かれていった。9世紀初めころ,東・西地中海のほぼ中央部に位置するチュニジア・イフリーキーヤ地方にアグラブ朝が興隆すると,スーサを海軍基地としたムスリム軍はビザンティン海軍を圧倒して,シチリアを征服(827),地中海に進出した。こうしてシリア,エジプト,チュニジア,シチリアを結ぶ地中海の海運は,東・西イスラム世界を結びつける国際的な交通運輸と貿易上の幹線として機能するようになった。さらにシチリアとチュニジアを経由して西ヨーロッパ世界,アンダルス,極西マグリブ地方やサハラ砂漠の南縁に通じるキャラバン・ルートとも有機的に連続した。11世紀末,十字軍運動の開始とともに,ジェノバ,ベネチア,ピサ,アマルフィなどのイタリアの都市国家は,船の大型化と船舶保有数を急激に拡大して,地中海の海運を独占しようと努めた。このことは,自由交流の場としての地中海の役割を大きく変貌させた。

 一方,インド洋では,ペルシア湾岸とイエメン出身のアラブ・ペルシア系航海民は紀元前にさかのぼる昔から,インドのマラバル地方やモルジブ,ラカディーブ諸島に産したココヤシやチーク材を用いて,三角帆をつけた縫合型構造船(ダウdāw)を発達させた。彼らは定期的かつ一定方向に吹くモンスーンと海流を最大限に利用し,そして星の知識にも習熟して迅速・確実に大陸間を往来する航海術を知った。モンスーンと海流を航海に利用すれば,夏季の航海期(4~5月,8月下旬~9月上旬)には,南アラビア,ペルシア湾からインド西海岸や東南アジアの諸地域に,また東アフリカからの北上航海が行われ,冬季の航海期(10月中旬~翌年3月末)には夏季と反対方向への横断がいずれも20~30日の航海日数で可能であった。地中海の海運がつねに西ヨーロッパ・キリスト教世界の諸勢力との敵対・抗争関係の中で行われたのに対して,インド洋ではムスリム,ユダヤ教徒,ヒンドゥー教徒,仏教徒,キリスト教徒など,宗教・人種・文化を超えた自由な交流と共存の諸関係が長らく維持された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「水運」の意味・わかりやすい解説

水運
すいうん

河海(かかい)・湖沼などの水路を利用し、船や筏(いかだ)で人や貨物を運ぶこと。川や湖沼での内陸水運と海での海運の総称。臨海地域間や水路での連絡が陸路より容易である地域での利便性、あるいは陸運に比べ1度に大量の物資や重量のある物資をより早く遠距離まで運ぶことが可能であるという効率性から、水運は人や物資、情報の移動に重要な役割を果たした。古代には調(ちょう)・庸(よう)・雑物(ぞうもつ)、舂米(しょうまい)などの官物輸送が主体で、国衙(こくが)の港である国(府)津(こ(く・う)づ)から官船や雇用された民間船により京の外港へと運ばれた。『延喜式』には臨海諸国から平安京への海路行程や漕賃に関する規定がみえる。10世紀以降、輸送の主体は荘園・公領からの貢納物となり、国衙、郡衙の津以外にも荘園・公領内や近隣の港が利用されるようになった。大宰府の外港那津(なのつ)(のちの博多津)、平安京や平城京の外港難波津を結ぶ瀬戸内海が基幹航路で、日本海航路では陸路と琵琶湖沿岸の塩津・大津などを経て京都に連絡する敦賀津(つるがつ)が、京都と瀬戸内海を連絡する淀川水系の淀津、木津などが代表的な港である。

 12世紀末までには瀬戸内海、日本海沿岸、太平洋の航路を接続することで国内沿岸各地への航行が可能になっていたとみられ、古代以来の要港のほかに瀬戸内海の鞆(とも)・室津(むろつ)・大輪田泊(おおわだのとまり)(のちの兵庫津)、北陸の小浜・琵琶湖沿岸の坂本、太平洋側の安濃津(あのつ)・大湊(おおみなと)などが重要な中継地となった。博多津や兵庫津を拠点に中国や朝鮮と、敦賀津や十三湊(とさみなと)を拠点に北方との貿易も行われた。

 13世紀後期以降、生産技術力の向上や荘園公領制の衰退により輸送の主体は商品となり、遠隔地間を廻船が航行した。通航量を背景に海賊の活動、関所の濫立など通航上の支障もみられる。15世紀、水運の活況は「兵庫北関入船納帳(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)」や各地に諸写本が伝来する廻船式目からも窺われる。戦国期、航路封鎖や荷留など、戦火の拡大により水運をとりまく状況も混乱するが、豊臣政権下で惣無事令(そうぶじれい)や海賊停止令(かいぞくちょうじれい)により寸断されていた航路が復旧し、水運の一元的支配が図られた。

 近世には鎖国令で日本船の海外渡航が禁じられるが、国内では幕府が富士川や高瀬川開削、東廻(ひがしまわり)・西廻海運の刷新など大規模な水路再編を行い、江戸、大坂を基軸とする全国的水運網の整備に努めた。諸藩の蔵米や民間商品が廻漕され、菱垣廻船(ひがきかいせん)・樽廻船などの賃積船、北前船・内海船(うつみぶね)などの買積船が稼働し、問屋も発達した。操業や雇用関係の複雑化、海難事故の多発を背景に水運に関する法令も整備された。近代以降は、鉄道網・道路網が整備され、交通・輸送体系が変化したことで役割が低下するが、近年、災害などの非常時に陸路にかわる交通・輸送手段としての役割、環境負荷の低さなどからその重要性が見直されている。

[綿貫友子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水運」の意味・わかりやすい解説

水運
すいうん
water transport

貨物の水上運送をいう。しかし狭義には淡水区域だけに限定していう場合もある。国際性の強い外航海運に対する内陸水運としては,沿岸航路,可航河川・湖沼,運河による3種類のものがあり,一般に,海岸線が長く,天然の良港に恵まれ,港湾・河口都市が発達したイギリスや日本などでは早くから沿岸航路による内陸水運が重要な内陸交通手段として発達し,運河の建設や内陸河川の改修が比較的等閑に付されたが,海岸線が短く,主要都市を内陸にかかえる大陸国家では河川・湖沼,運河などによる内陸水運が重要な内陸交通手段として発達した。在来の内陸水運が技術的にすぐれた鉄道の発達の影響を受けたのち,第2次世界大戦後は,港湾や内陸河川・湖沼,運河の建設改修工事のための内陸における作業船需要が増大,船舶技術が進歩し船の能力も高度化して,フェリーボート,コンテナ船,ラッシュ船,プッシャーバージ・ラインなどにみられるような貨物船-特殊船 (作業船) -自動車,外航船-内航船-作業船などが相互に結びついて一体となった,水運における新しい複合一貫運送が出現した。さらに,エアクッション艇や水中翼船などの新しい運送機関が出現することによって,水運が運送全体のなかで受持つ分野と比重は非常に広く高いものとなった。

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普及版 字通 「水運」の読み・字形・画数・意味

【水運】すいうん

運漕。

字通「水」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の水運の言及

【廻米(回米)】より

…陸上廻米は奥州内陸部など海に面していない一部地方に限られた。街道の輸送には多数の人馬を必要とし,宿駅常備の人馬ではとうてい間に合わず,豪商の請負いによる輸送となり,運賃は水上輸送(水運)に比べ数倍以上となった。途中,河川舟運を利用しても陸上輸送には問題が多かったのである。…

【道】より

…道の一部は断崖に木を打ち込みその上に桟をかけ渡したもの(桟道)であった。その後も秦嶺横断の道路はしばしば改修され,漢の武帝のときには山麓までの水運を効果的に利用しようとする褒斜道(ほうやどう)も開かれた。しかし蜀への道の険阻なることは変りなく,李白の楽府〈蜀道難〉には〈蜀道の難は,青天に上るより難し〉とうたわれている。…

※「水運」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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